風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

小学校高学年に向けて聖書を語るために・・(ヨハネによる福音書9章1節〜5節による話を例として)

ヨハネによる福音書9章1節〜12節のところから、私は、過去2回、子どもに向けて話している。一度目は、その頃来ていた小学校高学年と中学生を対象としてまとめたものだった。

以下、

聖書をお読みします。ヨハネによる福音書9章1節〜5節。

今お読みしたところには目の不自由な人が出てきました。お弟子達はイエス様に「この人が目が見えないのは、この人が罪を犯したからですか?それともこの人の両親が罪を犯したからですか?」と尋ねました。

私が若い頃、なかなか結婚出来ないでいると、私の事をよく知っている人から「あなたが結婚できないのはあなたの両親が離婚したからだ」と言われたことがあります。
エス様が来られる前のイスラエルの人達も同じような考え方をしていたようです。つまり、親が犯した罪のためにその子どもや孫が不幸になるというのです。
十戒の中でも「父の罪を子に報いて3,4代に及ぼし」と言われています。実際、聖書ではアダムが罪を犯した為に全ての人類が罪に堕ちたということが語られています。

けれども、イエス様はここではそのような事には触れないで、この目の見えない人のことだけをご覧になって「この人が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したのでもない」とお答えになりました。

エス様は、私達がイエス様のことを知るずっと前から私達のことを知っていて下さいます。私達は「自分の事は自分が一番良く知っている」と思いがちですけれど、私達以上にイエス様は私達一人ひとりのことを知っていて下さるのです。そうして、「あなたの罪でも、両親の罪でもない」と言って下さいます。このイエス様の前に来て、私達は、初めて本当の自分を知ることが出来るようになるのです。


では、どうしてこの人は生まれつき目が見えなかったのでしょうか。イエス様は「神の業がこの人に現れるためである」とお答えになりました。神様の業というのは神様の力と言うことも出来ます。

私達は足りないものが全くない時には神様の力をあまり求めないものです。幸せな時に、「たすけて!」と救いを求める人はいませんね。神様の力は弱い人、欠けを持った人の上に現されます。それを見て人々が神様を信じるようになるためです。


又、イエス様は続けて「私は世の光である。私達は日のあるうちに働かねばならない」とおしゃいました。これは、イエス様という光がある間に目を開けてその光を見なければならないということです。
私達の目はいつまでも開いているわけではありませんね。私達はいつか必ず死にます。死んでしまえば目は閉じて光を見ることも出来ません。ですから、生きていて、目が見える間に光を見なければならないというのです。
この目というのは心の目も表しています。この生まれつき目が見えなかった人も、イエス様の力によって肉体の目も見えるようになりました。そして、初めはイエス様のことが分かりませんでしたが、このお話の続きのところでは、心の目も開かれてイエス様をしっかり見上げて「主よ、信じます」と信仰告白をしています。


皆さんの中にはクリスチャンホームなんかに生まれなければよかったと思っている人もいるかもしれませんね。ある牧師の息子は、若い頃良くこんな事を言っていました。「牧師の家なんかに生まれないで、自分から神を求めてもっとドラマチックに信じたかった」って。
中には、自分の生まれてきた境遇に満足している人もいるかもしれません。
でも、私達がどんなにこんなのはイヤだと思っても、逆にずっとこのままでいたいと思っていたとしても、神様は、私達が神様の元へとたどり着く為に必要な道を私達一人ひとりにお与えになります。

皆さんがそれぞれに備えられた道を通って、イエス・キリストという光に照らされて、イエス様の元へと来られるようにと願っています。

では、お祈りをします。

父なる神様、イエス様は、「わたしは、さばくためにこの世に来た」と言われました。「見える人が見えないように、見えない人が見えるようになるために、この世に来た」と言われました。そうして、私たちの罪のために十字架を負われました。どうか、私たちも、このイエス・キリストによって見える者となることが出来ますように。
エス様の光に照らされて、罪赦された本当の自分を知ることができますように。
そうして、「神様、イエス様を信じます」と告白していくことができますように、一人一人を導いていて下さい。
この祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。

低学年向けのところでも書いたのだが、この部分は、9章の最後まで続いている。
9章41節には、イエスがパリサイ人たちに語った言葉が記されている。「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」、と。
また、34節には、盲人の証言に対して、「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」と言うパリサイ人たちの言葉が記されている。

全体を通して語られている中心となるのは、39節の「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」というイエスの言葉であろう。
キリストは、自分の罪を脇に置いて人の罪をあげつらうパリサイ人達、『見える』と言い張る人達を見えなくされるために来られたのであり、生まれつきの罪の中に押し込められているかのように思える者を解放するためにこの世に来られたのである。

エス・キリストは、全ての人の罪のために十字架を負われ、見えない人が見えるようになるためにこの世に来られた。「神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めた」(ローマ人への手紙11:32)との御言葉を思い浮かべる。自分には罪がないと言える者は一人としていない。