風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

西丸四方=著『病める心の記録』(中公新書)


 ぼくは二人の話を聞きながら考える。ぼくはなぜひとりぼっちなのか。それは本当の場所にいるのではないからだ。ぼくはほのかに本当の場所を求めている。本当の場所にいないから人としてしっくりいかない。

(略)

 かわいそうに、お前は病気をしてからちっとも大きくならないような気がする。まだ子供みたいな体で ー でもずいぶんむつかしいことを考えているらしいじゃないか。気持だけは大人なみかな。それだけでもいいじゃないか。いまにぐんぐん大きくなるよ。丈夫になるよ。さあもう寝よう」
 父はぼくの背中を撫でてくれた。
 ぼくは気が休まる。しかし不安、疑いがまったく溶けたのではない。父の話は恐ろしく漠然としている。輪郭だけだ。もっとくわしいことがあるのにそれをぼやけさせているのではないのか。父を疑っては悪い。どうしてぼくは人をこう信じないのだろう。母が事故で死んだなどという話をしてくれたところをみると、あながち父がそう隠しているのでもあるまい。

(略)

 どうせぼくなんかいてもいなくてもいい人間なんだ、とぼくはぼくにいい聞かせた。どこから来て、どこへ行くのかわからぬぼく。そういえば父だってそうだ。

(略)

 生きるとはなにか、死ぬとはなにか、父とはなにか、母とはなにかの問題が頭の中をぐるぐる廻る。何回も何回も考えたことだ。

(略)

 カズオやミツコが来る時にはよく本を持って来てくれる。(略)
 ある日、北原白秋という詩人の「雀の生活」と、聖書を持って来てくれた。玄光寺の和尚さんがぼくに読むようにとのことで、どこでも開いて、ぱらぱらと読んでごらん、とのことであった。和尚さんと聖書って妙なとりあわせね、とミツコは笑った。古い古いよごれた本、しかし不思議な本で、それを読んでいると、ぼくは雀になった。その時聖書を開いた。マルコ伝七章、ある女が気が違った小さな娘をなおしてくれと頼む。イエスは、子供に十分食べさせ、子供の食物をテーブルの下の小犬に投げてやってはいけない、という。女はテーブルの下の小犬も子供の食べ屑を食べるのです、という。イエスは、お前のこの言葉で子供はなおった、という。ぼくは雀から犬になり、子供になった。そして涙があとからあとからと溢れた。ぼくの中で氷が溶けて流れ出した感じだ。ロボットが雀になり、犬になり、人間になった感じだ。あのきたない町の小鳥に餌をやる ー すっかり忘れていたことだ。こんな大切なことを。アパートの屋根にも、ごみすて場にも雀はいた。ぼくはすっかり忘れていた。胸に暖かいものが込み上げた。

西丸四方=著『病める心の記録 ある精神分裂病者の世界』(中公新書)より







とあるサイトの精神疾患の「連合弛緩」という用語解説を読んでやたらと腹が立った。それで以下のツイートをした。


精神科医かどうか知らないけど」と書いて、もう一度サイトを見直すと、「当サイト…管理人の診察を受ける事ができます。この記事を書いている先生の診察を受けたいという方は「受診のご案内」をご覧ください」と書いてあったので、「受診なんて、するか!」と思った。
というわけで、下のツイートへと続く。


病気となれば神経伝達物質の問題は基本にあると思うけれど、これは、この世界に正しい答が見出せないというところに根本的な問題を抱えているのだと私は思っている。別に統合失調でなくても、理解の及ばない事柄を因果で捉えようとすることはいくらでもある。実際、世の中では関連のないものを関連づけていうことが多い。「世の中の方がよほど論理的でない思考で溢れかえっているだろ!」という思いが私の怒りの根底にある。