風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

歴史に学ぶとは、神話に学ぶとは


● 説教(ルカによる福音書23:1~5) 「聖書の言葉を聴きながら」
 ただこれは、神がイスラエルを捨てられたということではありません。パウロユダヤ人の救いについて「神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。」(ローマ 11:32~36)と記しているとおりです。(抜粋引用)

「歴史に学ぶ」とは、歴史の何に、どう学ぶことを言うのか。

それは恐らく立派さに学ぶというのではないだろう。古さでもない。古さと言えば、あちらとこちらのどちらが古いかという比較が生じる。立派さにおいても同じだろう。

文化にしても伝統にしても歴史にしても、自国のものに誇りを持っている限り、比較や競争や二元論の坩堝から逃れることは出来ない。一時逃れたかに見えて、またそこへと嵌り込んでしまう。

本物の学びは、自らの愚かさを知るところからでなければ起こり得ない。

慰安婦の問題にしても、沖縄の問題にしても、誰もが問題に寄り添い解決してくれるヒーローを求めている限り終わることはない。不利益を被り、犠牲を払っても、寄り添い続けるヒーローなど存在しないのだから。


一説に、イスラエルはバビロン捕囚の中で、バビロンの創成神話に触れて、創世記を語り紡いでいったと聞く。
戦いに敗れ捕虜となって祖国を追われる惨めさの中で、「お前たちの神はどこにいるのか」という嘲りの中で、救いの神に、創造の神に出会っていったのだ。


涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て 神の御顔を仰ぐことができるのか。
昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う「お前の神はどこにいる」と。
わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす 喜び歌い感謝をささげる声の中を祭りに集う人の群れと共に進み 神の家に入り、ひれ伏したことを。(詩編42:2~5)

わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。(ローマの信徒への手紙7:24)

あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。(ヨハネの黙示録3:17)


讃美歌151

3 明日を待たぬいのちもて
  なやみたえぬ世に住めば
  たえがたくかなしかるを
  今は死なぬ身となりぬ