風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

神の御心とは? 愛するとは? ー 『聴く』4月号から


● 説教(マルコによる福音書1:13) 「豊島北教会ホームページ〈読む礼拝〉」より
 マルコは、マタイやルカのように、誘惑の内容について記しません。ただ「サタンの試みにあわれた」と記すだけです。…。むしろ、キリストの受洗から宣教の開始までを一息に語ることによって、マルコは誘惑の意味を示しているのです。
(中略)
 イエス様は、荒野の試みを受けてから「あなたはわたしの愛する子」と呼ばれたのでではなく、「愛する子」と呼ばれてから荒野の試みを受けられたのです。聖書の語る試みとは、神の子とされるためのテストではありません。それは合格とされたものたちに与えられるトレーニング、訓練の時なのです。

 ヘブル人の手紙は『わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである』と旧約聖書箴言3章11節以下を引用して「あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである」(12:5-7)とあかししています。私たちは…、神の子であるからこそ試みを受け、…、神様のみ心にますますかなう者とされるために訓練を受けるのです。それは、私たちの悔い改めのときであり、私たちが福音を新たに聞き直す信仰者としての新生のときなのです。

 そして、マルコはこの試みを一行、一言で語り尽くします。それは、私たちがそのただ中にあるときには、永遠に続くかと思える試練のときも、後から振り返るならば、ほんのひとときのものに過ぎないということにほかなりません。(抜粋引用)