風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

みたび主を否みしのちに漁夫ペテロ(葛原妙子歌集『朱霊』より)


● ルカによる福音書22:54~62からの説教 「聖書の言葉を聴きながら」
 わたしたちは、主イエスが十字架を負われ命を献げられたのは、このわたしのためであったと気づいたとき、主イエスを救い主として信じるのです。ただ素晴らしい人、尊敬できる人としてではなく、自分の救い主として信じるのです。
(略)
 これは、信仰の最初に一度起きることではなく、信仰生活の中で、繰り返し示されるものです。礼拝を献げる中で、御言葉を聞く中で、わたしたちが信仰から信仰へと、キリストを深く知るようにと神に導かれて経験していくのです。三度イエスを否んだペテロが、神に導かれて、使徒としての務めを全うしたように、わたしたち一人ひとりに、神がふさわしい導きを備えていてくださいます。自分に失望して、激しく泣いたその先に、神が道を開いてくださいます。わたしたちの救いも、希望も、イエス キリストのもとにあるのです。(抜粋引用)

みたび主を否みしのちに漁夫ペテロいたく泣きしをわれは愛せり 葛原妙子『朱霊』

夫がペテロの否認の箇所の説教準備をしていた土曜日、「葛原妙子の短歌にこんなのがあるよ」と言って、「みたび主を否みしのちに漁夫ペテロいたく泣きしをわれは愛する」だったかな?と教えた。私という人間は、どんなに好きな人の短歌でもなかなかきっちり頭に入らないのである。定型とか、韻律とか、覚えやすいものが大事に考えられている短歌でさえ、なのだ。それで、後できちんと調べて言い直した。

そして、翌日の礼拝で説教を聴きながら、あぁ、やっぱり「愛する」と「愛せり」では全く違うと思ったのだった。「愛する」には意思?意志?が伴う。しかし「愛せり」という時は、知らず知らずのうちに「愛してしまった」、あるいは「愛さずにはおれなかった」というような意味合いが含まれてくるように思うのだ。

この時の説教の後の献金の祈りの中で、教会員が「ペテロの否認の話を聞くと、いつも胸が痛みます。ペテロと同じ弱さを私も抱えているからです。神様、どうか私たちを試みに合わせないでください」と祈られた。その祈りをお聞きして、やはり、妙子の短歌は「愛せり」でなくてはいけなかったのだ、と思ったのだった。主を否んだペテロの悲しみを、妙子も、自分のこととして受け取っていたからだ。だから「愛せり」なのだ、と。

まばたかずひとりゐるときしらみくる市街真中に鶏鳴きこゆ  葛原妙子『朱霊』
(とり)啼くにペテロおもほゆ鶏啼くに一生(ひとよ)おびえしならむペテロよ