風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」(マルコ福音書1:1)からの礼拝説教

聖書箇所:マルコによる福音書 1:1(口語訳)

 きょうは大晦日。1年最後の日です。明日になりますと、暦が改まり、新しい年、2018年が始まります。みなさんご存じのように、この2018という年の数え方は、イエス キリストの誕生を基準として定められました。実際は、キリストの誕生とは数年のずれがあるようですが、紀元前をキリスト以前(before Christ)B.Cと言い、紀元後をキリスト以後(Anno Domini)A.Dと定め、年代を表現してきました。わたしたちが主と仰ぐお方は、わたしたちの歴史を治め導かれる主であります。主の2017年が主の導きのもと終わりを迎え、主の2018年が主によって開かれ、主によって始められるのです。
 この暦が改まる最後の日に、わたしたちが聴く御言葉は、イエス キリストの生涯を記した4つの福音書の中で最初に記されたと言われているマルコによる福音書の最初に記されている御言葉です。

 新約には27の文書が収められていますが、福音書は比較的遅くまとめられたものです。イエスを直接知っている使徒たちが世を去っていくようになって、イエスがキリスト、救い主であることを伝えるため福音書がまとめられるようになっていきました。
 聖書にはイエスがキリストであることを正しく証ししているものとして四つの福音書が収められています。その四つの福音書の中で、マルコによる福音書が一番最初にまとめられた福音書だと考えられています。いちばん短い福音書ですが、マタイによる福音書ルカによる福音書もこのマルコによる福音書をもとにしてそれぞれ福音書をまとめあげています。短いですが、マタイ、ルカの手本ともなった大切な福音書です。

 福音書はそれぞれ特徴のある書き出しで書き始められています。マルコによる福音書「神の子イエス・キリストの福音の初め」という一文で始まります。

 ここに福音という言葉が出てきます。福音というのは、良い知らせという意味です。この福音という言葉は、元々は聖書の言葉ではありません。当時一般には、新しく王が即位したとか、戦いに勝利したといった知らせを福音と呼んでいました。

 皆さんよくご存知のマラソンという陸上競技の名前の由来にこういう話があります。紀元前490年、ギリシャペルシャは戦争をしていました。特に激しい戦いになったのはアテネの東北にあるマラトンの平野でした。この戦いはギリシャ軍の勝利に終わりました。この勝利を伝えるため、マラトンからアテネまでの長い道のりを一人の兵士が走り続けました。息も絶え絶えにアテネに着いた兵士は「喜べ、我々は勝ったぞ」と叫んだ後、疲れ果てて死んでしまったという話です。この「喜べ、勝ったぞ」という知らせを「福音」と言っていたのです。聞く者に喜びを与える知らせのことを当時は福音と言っていたのです。

 当時、福音はキリスト教の特別の言葉ではありませんでしたから、マルコによる福音書はこの福音という言葉を使うにあたり、「イエス キリストの福音」と言ってこの福音がどのような良い知らせなのかを明らかにしようとしました。
 イエス キリストの福音と言った場合、イエス キリストがもたらしてくれた良い知らせということです。福音という言葉は勝利の知らせに使われていたと言いましたが、まさにイエス キリストの福音は勝利の知らせでした。罪と罪がもたらす死に対する勝利の知らせでした。そして、福音という言葉は新しい王の即位にも使われたと言いましたが、罪と死からわたしたちを解放し、イエス キリストがわたしたちの新しい王、主となられたというのがイエス キリストの福音なのです。
 このイエス キリストの福音は、イエス キリストがご自分の命を懸けた十字架と復活によってなされました。ですから、イエス キリストの福音はイエス キリストがもたらしてくださった良い知らせであると同時に、イエス キリストご自身が良い知らせそのものなのです。イエス キリストが福音なのです。

 この一番最初にまとめられ、いちばん短いマルコによる福音書は、そのイエス キリストの福音を伝えていくためにまとめられたものなのです。イエス キリストの十字架と復活をきちんと伝えるためにまとめられました。マタイやルカのように誕生の話もなく、少々物足りないような気がするかもしれません。しかし、イエス キリストを知り、その十字架と復活を理解するために欠かせないことをマルコによる福音書はまとめているのです。

 そして、イエス キリストを知る際に鍵となるのが「神の子」ということなのです。救い主キリストとして神が遣わしてくださったのは、ほかならぬご自身のひとり子であったことをこの福音書は証ししようとしています。天使が遣わされたり、新しい指導者が人の中から立てられたのではなく、わたしたちを救うために神の子が人となってこの世に来てくださった。そしてあろうことかその命まで懸けてくださった。
 神はわたしたちに対して本気でした。本気で愛してくださり、本気で救ってくださいました。神は代わりのないひとり子を遣わしてくださいました。イエスは神の栄光を惜しまず、そしてご自分の命さえも惜しまれませんでした。
 少し砕けた仕方で言うならば、「そんじょそこらのいい知らせとは訳が違う。神の子イエス キリストの福音だ。さあ、その福音を語り始めるからよく聞いてくれ」とこの福音書は最初の一文でもって語っているのです。

 今から語り始める、ここから始まる、だから「福音の初め」なのです。ですが、この「初め」というのはこれから始まるというだけでなく、この福音書全体を指しているのです。福音書に書いたこと全部、十字架と復活に至るイエス キリストのすべてによって良い知らせ、福音は始まった。それが今に至るまで続いているんだよ、ということを表しているのです。

 (新共同訳聖書は、この1節を8節までのまとまりに入れて、それに「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」という小見出しを付けてしまっています。確かにこのように考える人もいるのですが、しかしこれではこの1節の大切な意味を狭くしてしまうように思います。元々の原文にはこのような小見出しは付いていませんし、とても大切なことをこの福音書は最初の1節で語っていると思うのです。今から良い知らせが始まるよ、そしてこの福音書に書いたイエス キリストによって福音が始まり、それは今も続いているんだよ、ということをこの最初の文は示しているのだと思います。)

 最初に福音という言葉が元々聖書の言葉ではなく、普通に使われる言葉であったことを話しました。神の救いの業は、ごく普通の言葉を神の恵みを指し示す言葉へと変えられました。これは単に福音という言葉だけのことではありません。普通のわたしたち一人ひとりを神の恵みを証しする神の民、キリスト者へと変えてくださいます。
 イエス キリストの福音は、単なる知らせ、ニュースではなく、わたしたちを本当に罪と死から救い出し、新しい神の民、キリストと共に新しい命に生きる者と変えるものです。
 単に暦が改まるだけでなく、キリストの福音によって、わたしたち自身が新しくされるのです。聖書は告げます。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(2コリント 5:17)

 神の子イエス キリストの福音を、神が語り告げられます。わたしたちを救うイエス キリストの良き知らせがわたしたち一人ひとりの上に今も新たに始まるのです。


ハレルヤ