風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

生きて露さへ

もみぢいよいよ燃えて一切まにあはぬ我のひと日を笑ふうつくし 馬場あき子『渾沌の鬱』

https://sunagoya.com/tanka/?p=19563

結句でふいに置かれる「うつくし」で、歌は主体の主観に集約される。燃えるような紅葉のありようや「一切」の語感、間に合わないという苦しさが、「笑ふ」 のあとの短く浅い呼吸のあとで、「うつくし」の余情に覆われる。そして「うつくし」のその余情は、この「うつくし」を主体の主観から解放する。この「うつくし」を、僕はまさにこの語のとおり美しいと思う。紅葉の美しさのみを指した「うつくし」ではない。「もみぢ」を眺める主体自身や、あるいは瑣事に煩わされながら日々を送る人間というものの全体をとらえて包み込むような「うつくし」でさえあると思う。燃える「もみぢ」の存在感が、自らとそのせわしなさを小さく見せ、同時に、ついに「まにあは」なかった自分の情けなさを際立たせ、しかしそれらのすべてが、この世の営みとして、諦念に近いような余裕を含みながら「うつくし」へと集約する。(抜粋)(染野太朗=文『一首鑑賞 日々のクオリア』より)

 

生まれてこない方が良かった等と思っている時、こんな鑑賞文に出会って、慰められた。(ミルトス)

 

蛾とならば口退化しぬる山繭の生きて露さへ飲まぬと云ふか

 

そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。(ヨハネによる福音書4:5~7)

 


若い頃から私は、こんな世界に生まれてこない方が良かったと思うことの多い人間なのだが、そういう風に思えば思うほど、「そういうところにキリスト(イエス)は来て下さったのだ」と思う。

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さあ、共に生きよう。主は命かけて、新しい自由の道を示された。(讃美歌21ー419)