風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

自己中心的とか利己的とか・・

 

さざんくわの咲く家、槇の実の生る家・・・・人は愛さうとこころみながら

 

いわゆる自己中、自己中心的であるとか利己的というのは、キリスト教においては大いなる罪だと言えるだろう。キリスト教は、共に生きるようとする宗教だからだ。

利己的な生き方というのは、「自分を愛するように隣り人を愛せよ」の前段階で留まって、「隣り人を愛する」というところに拡がっていかない。

 

「罪」は様々な形で現れるように思うが最終的には「愛せない」というところへと集約されていくように見える。

自己中心主義とか利己主義などの「主義」に陥っている場合は論外だが、私達は皆、この自己中心的、利己的であるところを越えることが出来ないでいるのだと思う。

 

しかし、「罪」をただ「的外れ」というような観念で捉えるばかりで、実態を明らかにしなければ、次第に「罪」に陥っていくことになるだろう。自分の「罪」を見ながら、黙殺するところから「罪」は生じる。

中世における異端審問による投獄・火あぶりの刑などもこの「罪」によって発生したと思われる。

カルヴァン等も自分の考えを正しいとして他を排除しようとしたところで、この「罪」に陥ったのではないだろうか?自ら手を下したのではなかったかも知れない、片目を瞑って人々の為すがままにさせたということなのかも知れない。しかし、それは、ダビデがバト・シェバを手に入れるために部下を戦いの最前線に赴かせた行為と同じだと言えよう。

「自分の考えが正しい」、「自分を中心に据える」、それは自分を「神」とすることに他ならない。それは正しくアダムが陥った「罪」だろう。

蛇は女に言った。「…。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる…。」(創世記3:5)

 

ダビデは姦淫の罪を犯した上に人を殺している。モーセも人を殺している。しかし、そういった罪は脇に追いやって、英雄視する場合が多いのではないだろうか?しかし、

エスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」(ルカによる福音書20:41~44)

 

すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(ヨハネによる福音書6:32,33)

 

この世には、キリスト・イエス以外に、唯一の者、完全なる方、中心となるものは他にない。