風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

福嶋揚=著『カール・バルト 未来学としての神学』(日本キリスト教団出版局)

福嶋揚=著『カール・バルト 未来学としての神学』(日本キリスト教団出版局)より抜粋引用

 

 …。学生時代に神学を学んだ恩師のほとんど全員を含む「九三人の知識人」が、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世とその宰相ベートマン=ホルヴェークの戦争政策に対して支持声明を発表しました。このことこそ彼に最も大きな衝撃を与えたのでした。

(略)

 牧師バルトが当時行った様々な講演の一つに、開戦翌年の「戦争、社会主義キリスト教」と題された講演があります。バルトはその中で、「平和を欲するならば戦争に備えよ」という言葉に世界大戦の原因を見出しています。この古代ローマ帝国の諺は、古来「平和を守れ」という大義名分のもとにあらゆる戦争が始まったことを示しています。このような軍国主義に加えて、少数の権力者による外交の支配、ナショナリズムの高揚、さらに「生産手段の私的所有に基づく無秩序な利潤追求」こそが戦争をもたらす原因だとバルトは述べています。このような国家と資本の支配に対して、キリスト教という伝統宗教も、アカデミズムの学問も、社会主義運動も、いずれも対抗することができずに屈服したわけです。

 それにしても、人間が正しいと見なす戦争を是認するために、聖書あるいは「神」が引き合いに出されるならば、結局キリスト教は「神」の名のもとに人間自身について語っているにすぎないのではないでしょうか?「神」とは所詮、人間の願望投影ではないのでしょうか?

(略)

「人間は神を語ることができる」という楽観主義こそが、フォイエルバッハ無神論に行き着いたのです。人間が自らの内にある道徳的な最高善、あるいは「神」に限りなく近づくことができるという啓蒙主義的楽観論、そしてその延長線上にあった近代プロテスタンティズムは、必然的に無神論を生み出しました。それゆえ無神論は、従来のキリスト教がわが身に招くべくして招いた審判であるとバルトは考えました。

 こうして自らの土台がいったん崩壊したところからこそ、バルトに真の固有な歩みが始まります。「神を語る」神学の不可能性、つまり神学の一種の「死」こそ、バルトの出発点となったのです。

 

この本の「はじめに」は、以下のように記されている。

 このように考えると、キリスト教世界の伝統的な学問である《神》学とは、一種の《未来》学であるとも言えます。近年バルトにも注目している哲学者の柄谷行人の言葉を用いれば、未来から語りかける「知性の声」はどんなにか細くとも途絶えることがないのです。(『憲法の無意識』岩波新書、二〇一六年、116ー117頁)。バルトの生涯と思想を案内しつつ、このまばゆいばかりの「未来の言葉」を聴くことが、本書の目指すところです。

   宗教改革から約五百年後、ロシア革命から約百年後に 

                                福嶋 揚

 

バルトのこの言葉を読んで、久野牧先生の説教を思い起こした。

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http://myrtus77.hatenablog.com/entry/20121020/p1