風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

人間には決して語り得ない言葉 ー「あなたは生きていてよい!」

2018年11月21日砂子屋書房『一首鑑賞 日々のクオリア』から抜粋引用

https://sunagoya.com/tanka/?p=19523

仮に「生まれない権利」というものがあるとすれば、人は生まれながらそれを侵害されていることになる。(略)出生・出自についての根本的なネガティブさと、それでも生きはじめてしまっているかぎりは生きつづけることへ奇妙なほどに意欲的であるポジティブさが文体をもねじっていて、歌をいちいちねじれた場所からはじめさせるのではないか。健やかに生まれ育って思春期あたりでねじれる人は歌も四句目あたりとかでねじるんじゃないかな。(略)
第二歌集の後半は二つの大きな「死」に割かれている。震災による「たくさんの死」と、笹井宏之という「身近な死」である。それらの出来事によって「私の生まれない権利」への問いは「あなたの生きる権利」への問いに反転し、ルートが曲がったと思う。この歌集は途中でめくれて、ちがう歌集がはじまる。第二歌集の後半で歌人斉藤斎藤歌人斉藤斎藤に「こんな風に生んでくれと頼んだ覚えはない」と文句を言うのではないかとすら想像してしまう。そして、けっきょくその台詞がこの歌人をいちばん生かすのではないか、とも。(平岡直子=文)

 

わずらわしき世のわざに、やるせもなきかなしみに、
なおひそめるみいつくしみ見させたまえあやまたず
               (讃美歌316ー3)

讃美歌のこんな歌詞がこころに沁みる時がある。

 

福嶋揚=著『カール・バルト 未来学としての神学』(日本キリスト教団出版局)より

 その一方で聖書は、イエス・キリストが「多くの人々のために」自らいのちを捧げることも描いています(マルコ一〇45)。またイエスでなくとも、人のいのちを救うために自らのいのちをすすんで犠牲にする、きわめて例外的なケースもあり得ることをバルトは示唆しています。
 いずれにせよ「自殺を禁止すべきか、それとも肯定すべきか?」という単なる二者択一、あるいは「自殺は悪か善か?」という単なる道徳的判断を聖書から導き出すことはできないというのがバルトの洞察です。
 さらにバルトは「あなたは死んではいけない!」という禁止にも、「あなたは生きていなければいけない!」という強制にも、説得力がないことを見抜いています。それらは死の誘惑の中にある当事者に対して訴えかけることができません。
 しかしバルトは、そのような死の誘惑の「暗闇の中にさし込む一条の光」があると言うのです。それは「あなたは生きていてよい(ドイツ語は略)」というメッセージです。バルトはこのメッセージを神学的に次のように説き明かしています。
(『教会教義学』からの引用は省略します。ミルトス)
 バルトはここで「あなたは生きていてよい!」という実にシンプルな言葉によってキリスト教の福音を言い表しています。日本語訳では「生きることを許されている」となっています。「許されている」という訳語は、その許し(赦し)が人間ならざるものからのメッセージであることを示唆しています。バルトは、この福音をいついかなる時もゆるぎなく語ることなど、人間には決してできないと言うのです。
 「生きていてよい」ということは、決して自明のことではないし、努力のもたらす成果でもありません。どれほど生きたくても、様々な災厄 ーー 災害、病気、事故、戦争など ーーによっていのちを断たれた無数の人々がいます。さらに「生きていてよい」ということがまさに掘り崩され失われつつあるのが現代の格差社会であることは、前節で見てきたとおりです。「生産能力のない者は生きるに値せず」「経済成長に貢献しない者は生きるに値せず」。ーー資本主義の末期は、そのような冷気に満ちた社会をもたらしつつあります。その冷気の中で、将来に希望を持てずに死を選んだ人々、死を願う人々がたくさんいます。
(中略)
 例えば旧約聖書出エジプト記においては、神ヤハウェモーセの一行をエジプト王国での奴隷状態から救出します。そして人々がこの解放の恵みを生かして共生社会をつくるために、神は人々に「律法(法律)」を与えます。その律法の代表が「十戒」です(二〇2ー17)。十戒ユダヤ民族にとっての共生のルール、憲法のようなものです。自らが生かされていることを知る者は、同胞を「生かせ」、同胞を「殺してはならない」(二〇13)という戒めを受け取ります。
 「私は生きていてよい」という自己理解は、「隣にいるあなたもまた生きていてよい」社会、「あなたも私も共に生きて祝福される」社会の形成へと人を誘います。自らが受けた恵み、贈与の大きさに打たれた人は、それを第三者に贈与(ペイ・フォワード)するでしょう。このような純粋贈与の力、福音の力は、人を暴力的に従わせる力とも、金銭的に動かす力とも異なる力なのです。
 その贈与の福音を人はどこから、何を手がかりとして知りうるのでしょうか?キリスト教はそれをイエス・キリストという一人物に見出します。イエスの教えと生涯、それが行き着いた十字架刑による死 ーー 同胞からも、伝統的宗教からも、国家からも、そして神からも捨てられた死 ーーは、人がもう二度とこのように死ななくてよい、自らを犠牲にささげなくともよい、「生きていてよい」という、一回的で決定的なメッセージなのです。
 福音とは、このような「幸い」(マタイ五3以下)の訪れ、幸福の音連れ、告げ知らせであるということができます。そして旧新約聖書を通して、また旧新約聖書の中心人物であるイエス・キリストを通して、この福音を探求するのがキリスト教神学という伝統的学問なのです。