風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「私とは誰か?」ー 日曜学校でのお話

● 2018年11月19日の砂子屋書房『一首鑑賞 日々のクオリア』から抜粋引用
…は役割に徹する作者だという印象がつよい。それも生涯を通したひとつの役割などではなく、その場その場で非連続的な役割を求められ、応えているようにみえる…。(略)型との軋轢が表現になるのではなく、型に入りにいくことが表現を振動させるタイプの。(平岡直子=文)

 

椎名麟三は「共に生きているものによって人は自己を規定されている」ということをエッセイの中で繰り返し書いているが、私たちはこの共に生きている者によって役割を振り当てられるのではないかと思う。共に生きる者が限りあるものである限り、亡くなれば新たなものを見つけねばならない。古い日本の女性は、そうやって幼い頃から成人に至るまで、○○家の娘、○○夫人と役割を振り当てられて生きてきたのではないかと思う。しかし、相対的なものを絶対的なものとして捉えてしまうと、それを喪った時に自分自身をも失うことになる。「その場その場で非連続的な役割を求められ、応えて」生きるというのは、一つの知恵かも知れない。

 

以下は、以前、大人と子どもの合同礼拝で、子どもに向けて語った日曜学校説教である。
この時は小学校高学年から中学生を想定して作ったと思うが、実際は子どもは誰もいなくて、大人だけに向けて語ったと記憶している。

先週の日曜日はクリスマスのお祝いをしましたね。

クリスマスというのは私達のためにイエス様がこの世にお生まれになったことをお祝いするお祭りです。この時、イエス様は赤ん坊となってこの世に来て下さいました。

 

今日は、そのイエス様が12才になられた時のお話です。

ユダヤの男の子は12才で大人の仲間入りをします。そこで、イエス様は両親と一緒に過越の祭りのためにエルサレムに行かれました。ところが、祭りが終って両親が帰ってもイエス様はエルサレムに残っておられ、ヨセフさんとマリアさんが引き返してきた時には神様の神殿の中で教師たちと話しておられました。

エス様を見つけたマリアさんは「どうしてこんなことをしてくれたのですか?お父さんも私も心配して捜していたんですよ」と叱るように言いました。が、それに対してイエス様は「どうしてお捜しになったのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを、ご存じなかったのですか」とおっしゃいました。

この時イエス様が言われた私の父というのは神様のことです。ヨセフさんのことではありません。両親の前で「私の本当の父母はあなた方ではありません」と言っているのと同じです。それはとても残酷な言葉のように思えます。

けれども、イエス様はこれから先、十字架にかかって死なれるのです。自分の子どもが十字架にかかって死ぬことに耐えられる親がいるでしょうか?でも、マリアさんやヨセフさんはこれから先その死を乗り越えていかなければならないのです。

 

私達は自分を誰だと思って生きているでしょう。
誰かの息子としてでしょうか?娘としてでしょうか?妻としてでしょうか?母親としてでしょうか?あるいは会社の社長としてでしょうか?長らく教師をしてきた者は教師として生きているでしょうか?けれど、そういったものは全ていつか失われていくものです。

 

私達はそのような全てを脇に置いてイエス・キリストによって罪から贖われた者として日曜日には神様の御前に立つのです。

 

マリアさんもヨセフさんも、イエス様の母親としてではなく、父親としてではなく、イエス様によって罪から贖いだされた者として自分自身を捉え直さなくてはなりませんでした。そのために、もうすでにこの時から、イエス様はその準備を始めておられたのです。イエス様の十字架の死は、私達一人ひとりのためであったように、マリアさんとヨセフさんのためでもあったのです。

 

では、今日の聖書を読みます。

さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが12才になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終って帰路についたとき、少年イエスエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。…。三日の後、イエスが神殿の境内で学者達の真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしているのを見つけた。…。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。…。(ルカによる福音書2章41~52 新共同訳)

子どもに語るには難しい内容だと自分でも思うが、子どもに語るからこそ、伝えるべき要点はしっかり押さえていなくてはならないと思う。

ここで語るべきことは、「イエスは神の子である」ということと、「私たちのために人間の子どもとなってこの世に来られた」ということだろう。

「ヨセフにしても、マリアにしても、罪からの救いの対象の外にあるわけではない」ということをしっかり押さえて語る必要がある。

母マリアが登場する場面では、マリア礼讃になってしまわないよう気をつけなくてはいけない。

 

これを小学1,2年生に語るとしたらどうすれば良いだろう?ちょっとやってみよう。

先週の日曜日はクリスマスのお祝いをしましたね。クリスマスというのはイエス様のお誕生をお祝いする時です。

今日は、そのイエス様が12才になられた時のお話です。

最初に、聖書を読みます。

エスの両親は、過越の祭には毎年エルサレムへ上っていた。イエスが十二歳になった時も、慣例に従って祭のために上京した。ところが、祭が終って帰るとき、少年イエスエルサレムに居残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。…。三日の後に、イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって、彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。…。両親はこれを見て驚き、そして母が彼に言った、「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです」。するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。しかし、両親はその語られた言葉を悟ることができなかった。それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。母はこれらの事をみな心に留めていた。…。(ルカによる福音書2:41~52 口語訳)

 

皆さんは、自分を誰だと思っていますか?○○ちゃんは、○○お母さんの子どもだと思っているかな?

 

エス様が12歳になった時、お父さんのヨセフさんとお母さんのマリアさんと一緒に、エルサレムにある神様の神殿に行きました。そこでお参りをしてお父さんもお母さんも帰ってしまっても、イエス様は神様の所におられました。イエス様が迷子になってしまったと心配してお母さん達が探しに来た時、イエス様は、わたしは「自分の父の家」にいたのです、とおっしゃいました。

エス様は本当は神様の子どもでしたね。神様の子どもであるイエス様が人間の子どもになって、私たちのところに来てくださったのです。そのことを先週のクリスマスにお祝いしたのでした。

 

神様の子どもであるイエス様が人間の赤ん坊になって来てくださったので、イエス様を信じる人は皆、神様の子どもになりました。ですから、私たちにも人間のお父さんやお母さんがいますけど、もっと大きなお父さん、神様というお父さんがいてくださるのです。ですから私たちもイエス様と同じように神様の子どもになったのです。

○○ちゃんは、○○お父さんの子どもです。でも、○○ちゃんは神様の子どもでもあるんです。これからも神様とずっと一緒に生きていけるといいですね。

 

ではお祈りをしましょう。

祈り:父なる神様、イエス様が人間の赤ん坊となって来てくださったので、私たちも神様の子どもになることができました。ありがとうございます。これからもずっと神様と一緒に生きていくことができますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

 

問い1 あなたは誰ですか.
答え  わたしは神さまの子どもです.
問い4 神さまに愛されるためには「良い子」にならないといけないのですか.
答え  いいえ. わたしがどんな子であっても,神さまは愛してくださっています.
   (『みんなのカテキズム』アメリカ合衆国長老教会=著(一麦出版社)より)