風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

生涯をかけた神学の言葉が・・

 

とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある。(申命記33:27)

 

八木誠一の『キリストとイエス』の中でティリッヒの「神は存在の究極の根柢である」という言葉と出会った時、私はこれで教会に留まることが出来ると思った。

しかし考えると不思議なのだが、「神が存在の根底に居てくださるのなら、べつに教会にいなくても、どこにいても良いのではないか」、「そう考えて、教会を去るという選択をどうしてしなかったのか」、ということなのだ。私は昔から組織というものに馴染まないところがあった。それなら尚のこと、教会を離れれば良かったのではないか、と思うのだ。

最近になって、また、これはどういうことだろうと考えていた。そうして思った。

ティリッヒの生涯をかけた神学の言葉が私を教会に引き留めたのだ、と。

ティリッヒの「神を指し示す言葉」が私を教会に留めたのだ、と。

教会というのも煩わしいところだ。依然として私たちは罪の中に生きているのだから。しかし、

子どもの頃から死について考えて死を恐れていたにもかかわらず、若い頃の私はいつも死にたいと思っていた。あの頃の私にとっては、教会に留まるというのは、煩わしいこの世に留まることと同じであった、と思う。

そうなのだ、キリストは、生きるのが煩わしいと思える罪の世に来て下さったのだ。そしてキリストの体である教会のただ中にあって、私たちを支えていてくださるのだ。

教会とは、神がこの世に来て下さったということを顕し続ける場所なのだ。

 

神は、われわれのまっただ中に、非常に腐敗し・呪われ・頽廃した場所に、われわれの地上生活のもっとも遠いすべての隅々に、しかり、われわれの墓場にさえも、いるのである。(ロマドカ=著『昨日と明日の間の神学』より)