風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

『聴く』10月号

 

今年5月に特別伝道礼拝でお迎えした先生は、説教を原稿にまとめられず、講壇に立って、その場で語られるという方であったので、『聴く』には私の感想のような形でまとめて掲載させていただくことにした。

説教:「新しい人」 聖書:「創世記3:1〜7」、「ヨハネによる福音書20:19,20」

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先生は説教の前半で「自意識」について話されました。取って食べるなと言われた木から取って食べたアダムと女は「自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた」(創世記3:7)。この行為は、「自意識(自我)」のなせる業だということです。

先生は、「自意識」は他者からどう見られるかを意識することから起こってくるというように話されました。私たちは多かれ少なかれ人からの評価を気にするものですが、これを突き詰めていくと、「神からの」評価を気にするというところへと行き着くのではないか、と私は思いました。このことは、私たちが神様をどのように理解しているかというところにつながっていく、と思います。

ヨハネによる福音書20章19,20節には、恐怖の中で閉じこもっていた弟子達の中に立たれた復活の主が、「安かれ」と声をかけられた様子が記されています。
この復活のキリストの声を聴くなら、どんなに罪を抱えていても、「新しい私」に生まれ変わって生き始めることが出来るのだと思いました。

途中、「クリスチャンは死んでも大丈夫なんです!」と先生が語られたので、「確かに!」と思いつつ、なんだか可笑しくて、説教中に笑いを堪えるのが大変でしたが、「安心しなさい!」というキリストの言葉が○○先生のお声を通して会堂に響き渡る慰めに満ちた礼拝でした。

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丁度10月号の『福音時報』に同じ説教題でこの先生の説教が掲載されていたので、最後の部分を抜粋引用させて頂く。

ー そこに、復活の主が現れたのである。そして、「シャローム:平安あれ」と言われた。それは、「あなたがたのすべての罪はゆるされている」ということである。(イエス・キリストの十字架の死によって、彼らのすべての罪は、永遠に償われたのである。)人間のすべての罪を無力化し、死を消滅させて、「シャローム」を宣言された復活の主を見て、弟子たちは「喜んだ」のである。この「喜び」の中を生きる人間、それが、信仰者であり、キリスト者である。
 それ故に、私たちは、くり返し、くり返し、主の復活された日曜日に、復活の主に出会うために、また、復活の主の「シャローム」の宣言を聞くために、聖餐の「パンとぶどう酒」を囲み、復活の主を証言する「聖書」の御言葉に聞く必要があるのである。(『福音時報』10月号:説教「新しい人」より)

この先生のお声は以下のサイトで聞くことが出来ます。この中に同じ「新しい私」という説教が入っていますが、内容は全く同じというわけではありません。
http://toyonakacc.o.oo7.jp/sermonindex.html

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以下は、ツイートから