上にリンクさせて頂いた短歌と今井恵子さんの解釈を拝見して、過去の自分の句を思い起こした。
風鈴の垂れてしづけし戦争に移らん時の静けさに似て 鈴木幸輔『長風』(1954年・白玉書房)
毎日の新聞の見出しが危うくなってきた。70年あまり続いた日本の平和が終るのではないかという気配だ。といっても、戦争を知る世代が減ってゆくなかで、戦後生まれの人々が、戦争がどんな風に始まるのか、簡単にイメージできるものではないだろう。
この歌は、終戦直後に詠まれた。(略)戦争の始まりは、しいんとした無音の中に密かに進行するのだといっている。「風鈴の垂れてしづけし」は、ただ無音であると言うだけでなく、言論を封殺されて言論人がモノを言わなくなった「静けさ」を思わせる。穏やかな「静けさ」ではなく、抑圧されて不気味な「静けさ」である。肌感覚でそれを知っている言葉に重みがある。(文=今井恵子『一首鑑賞 日々のクオリア』より抜粋引用)
鳴り渡る秋の風鈴路地静か
まだ、風鈴は鳴り渡っているだろうか?
しかし、次の選挙の後、風鈴が垂れて不気味な静けさに包まれるかも知れない。
風鈴を鳴らし続けたい。
仲代達矢が語る戦争「焼夷弾がバラバラ落ちてきて逃げ回っているときに小学生でもないような女の子が一人で逃げていたのでその子の手を握って逃げてたら急に手が軽くなった。見たら焼夷弾が彼女に直撃して私はその腕だけ持ってた。恐怖のあまりにその手を捨てて逃げた。捨てたことが未だ後悔している」 pic.twitter.com/DAa1vTt5T5
— やがて空は晴れる...。 (@masa3799) 2017年8月5日
(で、今日も雨なんですか?)pic.twitter.com/eCFiGq7VWt
— 🏕インドア派キャンパー↗️比例は共産 (@I_hate_camp) 2017年10月16日