風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

体癖9種と、愛を追い求めて生きること


体癖について書かれた本(片山洋次郎=著『整体。共鳴から始まる』)には、奇数種の人は主体的にエネルギーを起動させる内発型であるのに対して、偶数種の人は外側からの働きかけや空間の条件によってエネルギーが起動される外発型だと記されている。体癖のことを検索してみると、これを発展させたかのように書かれたものがあった。つまり、偶数種の体癖の人は他者との関わりの中でしか生きられず、奇数種の人は一人で生きていけるというような内容である。中でも、9種は一人を好む傾向があるように記されてあったりする。

20代の頃、牧師になろうかと思って牧師に相談したことがあった。相談した牧師からは、「大勢に語るのではなく、日曜学校の教師のように子どもや小さい群に語ることにも意義がある」というようなことを言われた。その時、心の中で感じたのは、「私は(福音を)語りたいと思っているわけではない」というようなことだった。けれど、実際問題その時の家の状況ではこれから神学校に行くというのも考えにくかったので、その場では何も言わず、それ以降はもう牧師になることも考えなかった。自分の中で答が既にある状態だからこそ相談するのだと何かで読んだか聞いた記憶があるが、そういう状態だったと思う。
最近になって、夫にその時のことを話すと、「それは、牧師というより、修道女的なものを求めていたのだろう」というようなことを言われたのだった。確かにそうかも知れない、と思った。私の中では、説教をするとか福音を語りたいというより、「もっと神の近くへ」という感覚だったのだ。けれど、修道女になるというのも、家族(母)を置いてということが考えにくい状況だったのだ。

そういった私、無意識の内に修道女を希望しているような、一人で生きていけるという体癖9種の私に、神様は結婚相手をお与えになったのだ。


「愛を追い求めなさい」(コリントの信徒への手紙一14:1)
愛するというのは、対象を必要とする。他者との間で成り立つものである。

人々の間で生きること、他者との関わりの中で生きることは、体癖9種の人間には時に煩わしいことと思える。
しかし、神様は人の中で生きることをお求めになって、結婚相手をお与えになったのだ。
その人生は、凡庸かも知れない。時に深遠なものから遠く感じられるかも知れない。そして煩わしく苛立つことが多いかも知れない。
しかし、神様は隣り人を愛して生きることをお求めになっている。

愛を追い求めること、それはつまり神を追い求めることに他ならない。
何故なら、神は愛(ヨハネの第一の手紙4:16)だからだ。