風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子58

静かなる暴力われ猫一尾をみな子三人(みたり)をしたがふるとき 『薔薇窓』

暴力にも様々あることを思わされる。
知人の中に、夫君に叩かれて片耳が聞こえなくなった、あるいは聞こえづらくなったという人が何人かいる。私の父も酒を飲んでは暴力をふるう人だったので、母は私を連れて逃げた。生後間もない頃だったから、私の記憶にはないが・・。
直接的な暴力でなくても、暴力となり得るものもあるだろう。ある老齢の婦人は、耳が聞こえづらくなって苛立つ御夫君から耳元で怒鳴りつけられる度に吐くようになった、と言っておられた。これ等も、明らかに暴力と言えるように思えるが、中には、傍から見ると暴力をふるっているようには見えない、という場合があるように思う。大きな声で怒鳴りつけるわけでなく、丁寧で、語り口も静かで、相手のことを案じているように傍で聞いていて思えるような場合は、周りからもその被害は理解されにくいだろう。しかし、そういった暴力も確かに存在する。そしてそういった場合は、暴力をふるっているという自覚が本人にはない場合が多いのではないだろうか。


葛原妙子のこの短歌が載っている『薔薇窓』は、第四歌集とされているが、一冊に纏められて出されたのは晩年の、妙子71歳の九月であった。一冊の歌集として出版されるまでに、おそらく十分歌の内容を吟味したであろうと思う。
猫と三人の娘達を従えて家の中を闊歩する自らの姿を、静かな暴力をふるっている者として捉えている。

ここで私は、罪とは何だろう、と再び三度考える。
「罪」について考える上で大事なのは、その対極に位置する「愛する」とはどういうことかであろう。私の中では、罪とは愛せないということに他ならない。しかしまた、この「愛するとはどういうことか」が分かりにくい事柄である。
愛についての定義は別の機会に考えることにして、ここでは、愛と暴力に関連した聖書の御言葉を一つだけ掲げておこう。

愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。(ローマ人への手紙13:10)
罪について、愛について理解していない者は、愛しているつもりになって隣り人に危害を加える場合がある。自分の罪についての自覚がない者は、こういった過ちを犯す可能性がある、と言える。

傍から見れば分からないかも知れない自らの暴力を「静かなる暴力」と捉えた葛原妙子は、晩年、誰よりも救いに近いところに身を置いていたのではないか、と思える。そうして妙子は、信仰告白へと至ったのだ。

わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。(ローマの信徒への手紙7:24)


律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。

それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。

わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。(ローマの信徒への手紙7:7,13,18~20)


エスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。(マタイ福音書22:37~39)