風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

命懸けの、だけど、死にそうな時は足の塵を払い落として出ていくのも一つの方法かも知れない

この男よくよく話を聞いてみれば理屈は通っているのだが

「脳の一部分ばかりを使い続けていると血圧が高くなる」、「文章を書いたり等、思考をアウトプットするための知的作業が続くと血圧が高くなる」というようなことを書いたものをどこかで目にした。逆に、本を読んだり、音楽を聴いたりして、思いを巡らしている時などはリラックスして血圧も下がるようである。
怒りやストレスで血圧は上がるが、夫の場合、説教をまとめる時、語る時、自分の考えを伝えようとする時などに血圧が上がるようだ。つまり、牧師という仕事をしていると血圧は上がるのである。しかし、最終的に「血圧が上がるからと言って辞めるわけにはいかない」という結論に達する。

この男は、自分が救われると信じて受けたものを、どこまでも語り伝えたい男なのだ。

自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。(ルカ福音書17:33)
このところ夫は、「ある教会員の信仰の成長のために何をすれば良いか」と、ずっと考え込んでいた。一つのことを考え詰めているので、血圧は高くなる。

若い頃に洗礼を受けて長く信仰生活をしていても、ふらふらと彷徨っていて、しっかりと信仰が確立されていないという教会員は思いのほか多くいる。一教会員ならそれでも問題ないだろうが、長老や執事等の重要な役職に就く場合は、そのままで良いというわけにはいかなくなる。
また、子どもに福音を語り伝える日曜学校の教師等も重要な務めを担う者と言える。むしろ、相手が子どもであるから尚のことその務めは重いと言わなければならない。
牧師や教会は、そういった教会員を訓練する責務を負っている。そういう人を庇い立てして「そのままで良い」等と言う者がいるなら、それは、神の前に立ちはだかって、神の御業を阻む者である。

あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。(ヨハネ黙示録3:17~19)

長老でありながら、長老のほとんどが祈り会にも出てこないという教会がある。健康維持のためにスイミングを優先して等、理由は様々なようであるが・・。こういう教会は、「神の御心を求めて」ではなく、人間的な考えで物事を決定していると言える。長老制の教会でありながら長老制の教会とはいえない。否、もはやキリストの教会でもないだろう。

執事にしても、長老にしても、祈り会に出席するというのは訓練を受けるための基本であろう、と私は考える。日曜学校教師にしても同様である。

ところが、…神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。(使徒言行録13:50~51)