風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

レンテンローズ、カチンと種を落としをり

レンテンローズ、カチンと種を落としをり三年先を夢想してをり


鉢植えのレンテンローズの世話をして毎年花を咲かせていた長老の具合が悪く臥せっておられるので、代わりに、株を弱らせないように花を切り落としたのだが、捨てるに忍びないので飾ることにした。水屋の上に飾った花に触れると、種袋が開いたのか破れたのか種がこぼれた。
ちょうど、「こぼれ種でも増える」と聞いたところだったので、蒔いてみることにした。芽を出すのは2,3年後だそうだが。

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種袋というと、浜田廣介のこんなお話を思い浮かべる。
以下は、昔書いた子どもの本の紹介から。

今回も、浜田広介について書いてみたいと思います。前回、「広介がキリスト教の信仰を持っていた等と言うつもりはない」と書きました。けれども、『キリスト物語』(冨山房)等も書いている広介が、神さまの登場する天地創造のようなお話をいくつか書いているというのも事実です。今回は、そんな創造物語のようなお話、『砂山の松』を紹介しましょう。

神様は、ある日二つの種袋を取り出して、一つの袋にある種には人となるように、もう一つには鳥になるようにお命じになりました。そして、「どんなことに出会うとも、ひとを恨むな。また自分を捨てるな。それから、どんな物でも、自分の物であったなら、たった一つは、後に残しておくがよい」と言い聞かせて、空に向って投げられました。砂山に落ちた種は一羽の鳥となりました。鳥は松かさを食べながら、砂山の近くの松林に住んでいました。ある日、その松林に一人の男が現れました。男は樹を伐りに来たのでした。しかし、男は神様の言葉を覚えていました。松林の松は一本だけ残されました。鳥は残された松の樹に住んでいましたが、又、ある日、自分が埋もれていた砂山に飛んでいきました。鳥は松かさの実を食べてしまうと、その実の一つを砂山の上に埋めて死にました。又、幾年もの時が流れて、南洋の遠い島から飛んできた燕たちが、砂山の上に、翅を休めることの出来る一本の松の樹をみつけたのでした。

この『砂山の松』には、人々の願いというようなものは、あまり色濃く描かれてはいません。ただ、鳥も人も、神様の命じられた言葉に従って生き、そして死んでいくだけです。私には、このお話がまるで信仰問答の世界のように思えます。
−人の生きる目的は何ですか?−
−人の生きる目的は、神を知り、神の栄光を表わすことです−

そして、神様の言葉に従って生きるとき、一つの命の終わりは、それで終わることなく無限につながり拡がっていくのだと思えます。

『ますとおじいさん』を娘に読み聞かせた時、娘は拍手してくれました。家の中で娘だけに読み聞かせて拍手をもらったのは、それだけのように思います。読んでいても『ますとおじいさん』は、最後、感動が込み上げてくるといった感じです。「あぁ、神様は本当にいらして私達の願いを聞きとどけて下さるのだ」と。けれど、この『砂山の松』は、私を深い静けさへと導いてくれます。まるで、壮大で美しい神の支配する世界を目にしているようです。

私たちに様々なことを考えさせてくれる広介のお話は宝の山のようです。けれど、その宝の山が、私たちの目からひっそりと隠されてしまっていることは、とても残念なことです。