風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「この女はできる限りの事をしたのだ。」(マルコによる福音書14:8)

己が死の為の香油の壺割りし女ありとふイエスの時代

マルコによる福音書の中で、ひとりの女がイエスの頭に香油を注ぎかけると、人びとは女を咎める。するとイエスは、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。」「この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。」と言い、「よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」と言われる。

このイエスの言葉の中で、「この女はできる限りの事をしたのだ。」という言葉はとても重要だろうと思う。つまり、私たちの為すことには[限界]というものがある、ということなのだ。
しかしイエスは、その女の限界をはらんだ「できる限りの」行為が、福音が宣べ伝えられる全世界のどこででも語り継がれていくだろう、と言われるのである。

私たちの為す行為には限界がある。けれど主は、私たちの限界をはらんだ行為を、「わたしによい事をしてくれた」と言って、喜んで受け止めて下さる。

そして、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(マタイ福音書25:40)と語られたように、隣り人や兄弟姉妹に為した私たちのできる限りの行為をもイエス様は喜んで下さるのである。


エスがベタニヤで、重い皮膚病の人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。(マルコ福音書14:3~9)