風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

眠れぬままに夜の海

 福島第一原発事故では、放射性セシウムなどが大量に放出され、現在も土壌や生物に蓄積されている。東京大学の森敏名誉教授とカメラマンの加賀谷雅道さんは、汚染した生き物や生活用品などを福島県などで採取し、オートラジオグラフィーという技術を使って可視化し、画像として展示している。

 (大事な箇所を、略)また、横浜市内の屋内に置かれていた空気清浄器のフィルターからも放射能が検出され、事故直後、広い範囲に汚染が広がった実態がうかがわれる。

 展示会を主催したギャラリーは、子育てをしている母親らに、事故のことを忘れず放射能の現実を見てもらうため企画したと語っている。(抜粋引用)

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何もかもここに移転す漁火の見ゆる病院建てるところに

目が覚めて眠れぬままに夜の海見ていたと聞けば何かせつない

烏賊釣りを生業とする人もあり夫が入りける循環器内科
目前に手術を控へその先に死を見つめゐる療友もをり
ここで我なにを語らむキリストの来たり給ひし海辺のまちで



「〜だろう」というのを古語で表記すると「〜だらう」になる。
「〜だろ」→「〜だら」とすると、遠州弁を思い浮かべてしまう。だから、この場合は古語で表記したくないと思ってしまう。遠州弁が嫌いなのではない。方言というものが嫌いなのだ。その土地に生まれて、そこに住み続け、そこで死んでいく人が知らず口にする方言ではなくて、仲間意識を強めようと殊更に利用する方言が嫌いなのである。

私の生まれ育った県は南北に長く、南端の市から北の端の市に行くには今でも特急で3時間かかる。言葉も北と南では全く違う。いや、ひと山越せば同じ市内でも全く違うように聞こえる。
働いていた時、組合の集会で北の方に行ったことがあった。そこで、「あがら」という言葉を連発された時には辟易としたものだ。「あがら」=「我等」。しかし私は、「あがら」等という言葉を使ったことは全くない。
安易な連帯が昔から私は大っ嫌いなのだ。そもそも仲間で括るというのが嫌なのである。小さな仲間でも、大きな仲間でも。

短歌擬きを作る時には、なるべく古語で作ろうと思う。古語は私の言葉ではないからだ。日本語だと言っても私の言葉では断じてない。だから、間違って使っていることも多いと思う。けれど、だからこそ、古語で作りたいと思うのだ。だけど、この二首目は古語ではどうしても作れなかった。