田中昌人/田中杉恵=著『子どもの発達と診断』(大月書店)
この「子どもの発達と診断」のシリーズは、私が教員をしていた頃に仕事関係のものとして読んでいた中の一冊である。
1歳をすぎた子どもたちは、要求がいれられないときにだだをこねます。しかも、その場面が転換しにくいのが特徴です。
これは、乳児期後半から幼児期にはじまる発達の階層への階層間の移行をしていく時期に多くみられるものです。それは、基本的にはこの時期の発達の特徴をしめしていることなのですが、おとうさんやおかあさんをたいへんてこずらせることでもありますので、ここでとりあげておきたいとおもいます。
(中略)
さて、この「だだこね」には2種類あります。15か月ごろを境にそれ以前に多くみられるものと、もう1つは18か月ごろに多くみられるものです。
(中略)「コウダ!」「コウダ!」、「・・・ダ!」「・・・ダ!」とくりかえすのです。まわりにいる人も平然とはしておれません。この時期をわたしたちは、だだこねならぬ「・・・ダ!こね」、略して「ダ、こね」「だこね」ともよんでいます。
(中略)
このばあい、子どものいいなりになるのも、おとなにしたがわせようとするのも、発達へのはたらきかけとしては適切とはいえません。(中略)
1歳すぎの「だこね」は、18か月をすぎると自分で気持をたちなおらせるようになります。
(中略)
このように、1歳すぎでは、自分の要求を表現するばあいとおなじく、まわりからの要求にたいしても、発達的にはいわば世界は1つというかんじで「・・・ダ」「・・・ダ」で対応していたのが、18か月前後になると、「・・・デハナイ・・・ダ」とみくらべ、選べるような対(つい)になった場面があたえられれば、その一方を自主的に決定しはじめます。あたかも外界すべてを「・・・デハナイ・・・ダ」と「わける」ことをするかのようです。ですから、そのみくらべ、選ぼうとしていることをはげますはたらきかけである2つのものを対(つい)になるようにしめして「どっちにするの」「どっちがいいの」ということばには元気よくこたえるわけです。このように18か月児では、おなじものでも2種類が対(つい)になってしめされると選びますが、これがさらに発達して2歳をすぎると、一方が他方にくらべてまさに選ぶにたりるものでなければ選ばなくなってきます。(田中昌人/田中杉恵=著『子どもの発達と診断2乳児期後半』(大月書店)より)
私はこの内容を熟知していたが、娘が生まれて1歳半の頃に「いや!」を連呼し始めた時には閉口していた。この本のこの箇所を見せると、夫は同じようにやってみて、娘が本に書いてある通りに「選んだ」と悦に入っていたものだが、知識として知っていても日常的に理想的に対応するには大変な労力がいるものである。
かくして、どんな知識、あるいは知恵をもってしても完全な子育てなど出来はしないということになる。そこで、罪の世界に生きる私たちは「神様、参りました、私には可愛い我が子ですら愛することができません」と、うな垂れるほかなくなるのである。
わたしは手を上げて誓う、と主なる神は言われる。彼らは自分の罪を負わねばならない。(エゼキエル書44:12)
高浜再稼働(4)再び高浜原発が再稼働。安全神話や原子力ムラの復活。だが福島は言うまでもなく、脱原発を願う声は全国津々浦々に。問題はそういう声を受け止める民意の受け皿がないこと。野党はどうした。何を考えている。 pic.twitter.com/n22YSGBEji
— 白鷺さん2 生活の党応援 (@sirasagisan2) 2016, 1月 28
悪役が「野郎!こなごなにしてやる!」などと言いますが
「粉」の定義は「直径がおよそ0.1ミリ以下の物」を言い、
それ以上の大きさの物は「粒」になります。
いくら人を殴っても直径0.1ミリ以下にはならないので、
「野郎、つぶつぶにしてやる!」が正しい。
すごい弱そう。
— 発想が天才のそれ (@tensai_no_sore) 2016, 1月 28