風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

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● 2/18「翁長沖縄と共に闘おう」東京大集会ーのお知らせ。2月18日(午後6時〜)、豊島公会堂で、小沢一郎議員、翁長雄志沖縄県知事をお呼びして、「翁長沖縄と共に闘おう東京大集会」を、開催します。是非、ご参加ください。

● 読書『「戦後保守」は終わったのか』と0115 再稼働反対!首相官邸前抗議
中道保守の代表格、大平元首相はこんなことを言っているそうです。恥ずかしながら、こんな見識のある人だとは知りませんでした。
『過去を捨象すると革命になり、未来を捨象すると反動になる。現在は過去と未来の緊張したバランスの中にあって、革命であっても困るし、反動であってもいけない。未来と過去が緊張したバランスの中にあるよう努めるのが健全な保守だ』
(中略)
まとめとなる最終章で、昨年SEALDsの集会でも度々マイクを取った上智の中野晃一教授は90年代以降 中道保守が弱体化した原因として以下のようなことを挙げています。
(中略)
と言うことで、今週も官邸前抗議へ。
(写真等、略)
今日の参加者は主催者発表で1100人。これだけ寒くても人数は先週とほぼ同じです。ボクもそうだけど、何としても反対の声を残しておかなければいけない、と思っている人たちでしょう。この前 判決が出た高浜3号機は今月末再稼働、4号機は2月末再稼働と言われています。
今週、私は、お昼の用意をする心配のなかった木曜の午前中に関電前に行った。洗濯物を干して10時半から11時半まで。良いお天気で良かった。近くの交差点を何度か回って立つ場所を変えながら立ち、最後は遠回りをして家に帰った。帰り際、小さいお子さんを散歩させていた人と2度目にすれ違った時、「ご苦労様です」と声をかけてくださった。「おまかせください」などとはもちろん言わなかったのだが、こういうことをやれる人間はやはり限られているように思う。私は、今、恵まれた環境にいるのだと思う。
庭のない家々の戸口にならぶ鉢植ゑのはな冬の陽に咲く
(ミルトス)

     天体観測
                  藤原基央
・・・・・
見えないモノを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ
静寂を切り裂いて いくつも声が生まれたよ
・・・・・
気が付けばいつだって ひたすら何か探している
幸せの定義とか 哀しみの置き場とか

生まれたら死ぬまで ずっと探している
さぁ 始めようか 天体観測 ほうき星を探して
・・・・・
       (藤原基央作詞『天体観測』より抜粋引用)



 絶望の経験は「神の怒り」の象徴に反映している。キリスト教神学はこの用語を使用もし、また批判もした。批判は、普通、異教における「神々の立腹」の概念が、感情に支配される偶像的有限的神の表象を前提とすることを主張した。そのような表象は神的なものの神性と無制約的に矛盾することは明らかである。したがってこの概念は、キリスト教思想においては、再解釈されるか、あるいは全然廃棄されなければならない。後者はアルベルト・リッチュルによって採択されたが、それは神的なものの神性の名においてではなく、かれが神の本性と信じた神の愛の名においてであった。神の「怒り」について語るならば、神における愛と怒りの間に分裂を生じるように見える。神はいわば怒りに捕えられ、そのためにかれの愛はその葛藤から脱しなければならない。そこでキリストの贖罪の働きが、神の怒りを招いたものを神が赦すことをえさせる解決策であると考えられた。というのはキリストの死によって神の怒りに満足が与えられたからである。このような解決方法は、しばしば分量的また機械的な範疇を使って入念に仕上げられたが、実は神の尊厳の侵犯である。そこでリッチュルは新約聖書における神の怒りに関する記事を、最後の審判を指すものと解釈した。つまり、「神の怒り」は最後の審判の否定面[断罪する面]を表すものであることになる。けれどもこれに対して、われわれは、絶望の経験は神と人間の関係の一要素の表現として「神の怒り」なる象徴の使用を正当化するのではないかどうかを問題にしなければならない。この問題に対して、ルターが「なんじはなんじが神を信じる如くに神を持つ」と言った時のかれの、実存的な解決法がここで参考となる。神からの自己の疎外を意識する人々にとっては、神は究極的破壊をもって迫る脅威である。神の顔は魔的様相をおびる。しかし神と和解された人人は、たとえかれらが真に神の怒りを経験したにしても、その経験はかれらがすでに和解されている神以外の神の経験ではないことを知る。むしろ神の怒りの経験は、かれらに関係する神の愛の行為の仕方である。神の愛は、愛に反するすべてのものに反して立ち、それをそれの自己破壊にゆだねる。それは、それが破壊されることによって人々を救うためである。(…。)これが愛を拒否する人において愛が働く唯一の仕方である。愛が愛を拒否する人に対して、愛の拒否の自己破壊的結果を示す時、たとえかれがそれをかれの存在に対する脅威として経験するにしても、愛がそれ自身の性質に従って働いていることに変りはない。かれは神を怒りの神と見る。そしてそれは暫時的な意味では正当であり、究極的な意味では誤りである。しかし、怒りの神としてのかれの神経験が最終的神経験でないとの理論的認識は、かれの存在に対する脅威としての神の実在性[脅威の現実性]を除去しない。ただ赦しの受容のみが、怒りの神のイメージを究極的に妥当する愛の神のイメージに変えることができる。(ティリッヒ=著『組織神学第二巻』「1D4絶望の意味とその諸象徴」(新教出版社)より抜粋引用)