風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

大口玲子さんの歌の向こうに葛原妙子の短歌が見える


寒夜このデモにまぎるる瘦身の今も地上を歩むイエスは 大口玲子『桜の木にのぼる人』

大口玲子さんの歌集『桜の木にのぼる人』の中にこの歌を見つけた時、葛原妙子への応答として詠まれた短歌ではないかと思った。

寒き日の溝の辺(へり)歩み泣ける子よ素足のキリストなどはゐざるなり 葛原妙子『飛行』
第四歌集『トリサンナイタ』の中で、「産まざればできぬ虐待、遺棄、心中きらきらとわが手中にをさめ」と詠った大口さんである。自らはそのような深みに嵌ってはいないけれど、一歩間違えば大きく口を開けた深淵に落ちるかも知れないということを知っておられるのだ、と思う。
「素足で子供に寄り添うキリストなどこの世にはいない(かも知れない)」という妙子の苦悩の深淵を踏まえながら、「キリストは瘦身の肉体を持つ『イエス』となってこの世に来られ、今も私たちの傍らを歩んでおられる」と詠い返しているのだ。
私たちは、先に生きた人々の苦悩を自らは体験することなく、けれどそういった苦悩が世にはあるのだと知って、そこから歩み出すことができるのだと思う。


そんなことを思いながら歌集を見直すと、他にも葛原妙子の短歌を遠くに見て詠んでいると思えるものがあるように思えるのだった。

見ることすなはち暴力としてわれは見るいまだ誰にも逢はざる桜 大口玲子
(さば)かるるものの質ありさびしきとき美しきものを凝視する瞳(め)に 葛原妙子『飛行』

きみはつねに先立ちて歩み従ひてつきゆくときのわれの小走り 大口玲子
かすかなる灰色を帯び雷鳴のなかなるキリスト先づ老いたまふ 葛原妙子『をがたま』

サムソンを詠った一連「サムソンの怪力」も、やはり『をがたま』の中の次の一首を遠くに見て詠んだものではないかと思った。

髪切るは影を切ること髪切るは力を切ることとしいはな 葛原妙子『をがたま』
デリラは彼に言った。「あなたの心はわたしにはないのに、どうしてお前を愛しているなどと言えるのですか。もう三回もあなたはわたしを侮り、怪力がどこに潜んでいるのか教えてくださらなかった。」来る日も来る日も彼女がこう言ってしつこく迫ったので、サムソンはそれに耐えきれず死にそうになり、ついに心の中を一切打ち明けた。「わたしは母の胎内にいたときからナジル人として神にささげられているので、頭にかみそりを当てたことがない。もし髪の毛をそられたら、わたしの力は抜けて、わたしは弱くなり、並の人間のようになってしまう。」(士師記16:15~17)



私が大口さんの新しい歌集を心待ちにしていたのは、短歌誌に掲載された次の一首を目にしたためだった。

言ひよどむわれを容赦なく問ひつめて不意に朗らかなイエスの声は 大口玲子
これほど豊かにイエスをイメージした言葉はこれまでに聴いたことがない、と思った。聖書を読んでもなかなかこんな風に活き活きとイエスをイメージすることはできないものだ。だから歌集として纏まったなら是非手元に置きたいと思ったのだった。
私の中では実在の人物でこのように私に対応した人を思い浮かべることはできない。が、「不意に朗らかなイエスの声は」と読んだ時、あぁ、確かにイエス様はこんな感じだと思ったのだった。「あなたは、あなたのその考えが本当に正しいと思っているのか」と問い詰められてしどろもどろになって俯いていると、不意に笑い声が聞こえる。そんなことが、これまでにも何度もあったように思える。実際に、目の前にそんなイエスが鮮やかに立ち現れて来る気がした。

そんなことを思いながら『葛原妙子全歌集』を見返していると、これまであまり良く分からないと思っていた妙子の歌が急にとても重要な歌として迫ってきた。

二十四本の肋骨キリストなるべし漁夫は濡れたる若布を下げて 葛原妙子『原牛』
この歌に関しては次の「葛原妙子の短歌とキリスト教」で書きたいと思う。


● 「歌詠みに砂漠は合わぬ」簡潔に書かれし文にひとひこだわる 三井 修『砂の詩学』
「歌詠みに砂漠は合わぬ」は評論の一節か、知人の手紙に書かれたさりげない感想だったのか、発言の重みのほどは知れませんが、受け手には重い問題提起でした。四季のうつろいなどの従来的な歌材がとぼしいことは、不利なのか。
砂原の昏きに生れ街の灯を渡りて昏きに風戻りゆく和泉式部の〈くらきよりくらき道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月〉を反映するであろうこの歌は、ひとつの回答です。前例のない試みとは、単体であたらしいものをつくることではなく、複数の要素のあらたな関係をつくること(ここでは、日本の古典と外国の風土の)をいうのだと思います。(佐藤弓生=文『一首鑑賞 日々のクオリア』より抜粋引用)