風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子56

ドストエフスキーの忌日とあやふくかさならむわが誕生日街に思ひをり 『原牛』

葛原妙子のこの短歌は、第五歌集『原牛』の中の「灰姫」の[雪蔵]の中にある。この歌の少し前には次のような歌が入れられている。

雪の音耳に磨れをりさやげるはそびえっとの亜麻 いんどの黄麻(くわうま)

歌集では、「そびえっと」にのみ、点が打たれている。

この同じ歌集である『原牛』の最初には、ゆきずりに入った小さな教会のミサの様子が詠われているのだが、その中にも「亜麻」を詠んだ歌が入っている。

亜麻布は蝕ばまぬ布 亜麻布は月のひかりのたぐひに見るべき 『原牛』
麻の袋にきらめき喜捨の銀貨落つ冬の御堂にはしら立ちつつ


亜麻の花はハーブの本の写真で見知っていたのだが、実物は北海道に行って初めて見た。教会員が会堂の脇に植えられたのである。若い頃に写真を見て、一度本物を見てみたいと思っていたので、花が咲きはじめた頃「もしや!」と思い、「これはフラックス(亜麻)ですか?」と植えた方に確認したのであった。確かにさやさやとさやげるような可憐な花で、いつかここでも植えたいと思っているのだが、なかなか手が出ない。
手持ちのアロマの本で調べると、主産地の筆頭にロシアと記されている。そういえば、亜麻の「亜」はロシアの「亜」であった、と思った。ウィキペディアで調べると、「比較的寒い地方で栽培される。日本では北海道のみが栽培適地である」と書かれていた。それにしても葛原妙子の知識の豊富さには驚くばかりだ。


このドストエフスキーに関連した歌については、長らく考えていたのであった。言葉というものは、相応しい言葉が口をついて出てくるまで醸しておかなくてはならないと思う。
さて、この短歌はどのように読み取るべきであろうか。ドストエフスキーロシア正教であり、(妙子自身は受洗を頑なに拒んでいたとは言え)妙子のご長女がカトリック信者であったから、やはり心は身内のカトリックの側にあって、ドストエフスキーを忌避していたと読み取るのが正しいだろうか。

これに関連して、もう一つ気になる短歌が『をがたま』に収められている。

十萬円のイコンを眺め立ちてゐるわれをみつむるイエス・キリスト 『をがたま』

この短歌についてはすでに「葛原妙子39」でも少し触れているのだが、歌の前に次のような説明書きが記されている。
イコン=ギリシア正教会で崇拝する美しい板絵彩色の聖書画。聖ルカの書き初めの由なるも後ひろく庶民信徒の描く所となる。
岩波から出ている『キリスト教辞典』では、イコンは以下のように説明されている。

ギリシア語原義は「像・姿」。板や壁にキリストや聖母、諸聖人の肖像・事績を描いたもので、特に東方教会の礼拝で使用される礼拝用画像。旧約聖書ではいかなる像をも造ってはならないという禁令があったが[出20:4]、初期キリスト教徒はカタコンベ(地下墓地)の壁に十字架や…など、キリストやキリストの教えを象徴する図像を描き、彼らの信仰を表現していた。キリスト教が広まるにつれ、改宗した者の教育や、祭儀・礼拝の意味を補助的に教示するためキリストの事績などを絵として表し、イコンが成立した。イコンが広く用いられるようになるとイコンに特別な力があるように考えられ、次第に呪物化してきた。キリストの神性を強調する立場にすれば、この傾向はキリスト教の生命を危うくさせるものであり、「聖像破壊運動(イコノクラスム)」(8−9世紀)が起こり多くのイコンは破壊された。しかしダマスコスのヨアンネスらはイコン擁護の立場で論戦し、遂にイコン崇敬の正当性が承認され、東方教会ではイコンの位置は揺るぎないものとなった。この後聖堂の至聖所との仕切にイコンを掲げる壁が造られ、ロシアでは非常に高い壁が現出した。(以下略)(『岩波キリスト教辞典』(岩波書店)より抜粋引用)
これを見ても、イコンというのはどちらかというと、ロシア正教などの東方教会で多く造られ、用いられたもののように思える。もちろん、西方教会であるカトリックでも聖像などが造られ、まつられているようだが・・。私はこういったことについて専門的な知識をもっているわけではないのではっきりと言い切ることはできないのだが、こういった記述から見て、やはり妙子は、東方教会の信仰を持ってカトリックに敵対していたドストエフスキーを嫌っていた、と取るべきだろうか。

葛原妙子という人は、考えに考えて歌を配置した人だと思う。イコンの説明に、ロシア正教ではなく「ギリシア正教会で崇拝する」と記しているところや、亜麻の歌の中で「そびえっとの亜麻」としているところ、さらに「いんどの黄麻」の「いんど」には点をふらず、「そびえっと」にだけ点をふっているところなど、お座なりに、無造作にしたとは到底思えない。このあたりは、真に周到に、考えに考えて為したであろう、と思われる。

ところで世界に名立たる文学というのはどういうものであろうか。世界に名立たる文学であるということは、どの時代の、どの国の人間にも通じるものがなければならないのではないだろうか。だとしたら、カトリックロシア正教の知識を持った者にだけ通じるというのでは、世界に名立たる文学とは到底言えないだろう。私は、短歌の形式が世界の人びとに理解されて読まれるならば、葛原妙子の歌はドストエフスキーガルシア・マルケスに比肩するほどの世界に名立たる文学となるはずだと思っている。少なくとも私にとっては葛原妙子の短歌はそのようなものである。

では、世界に名立たる文学とは、どういうものであろうか。もう一度問おう。
私は、ドストエフスキーも、葛原妙子も、人が普遍的に持つ苦悩を抱えていたと思う。「愛せない」という苦悩である。この苦悩は、これに気づかずに人生を終わることも多くあるだろうと思われる「苦悩」である。けれどこの苦悩は、人類が本来共通して持っている普遍的な苦悩であろうと、私は思う。ドストエフスキーが世界中で読まれてきたのは、このような普遍的な苦悩を作品の中に溢れるほどに内包しているからである。

葛原妙子の短歌もそうだ。しかし妙子は、自ら抱え持っている苦悩を軽々しく気取られることを良しとは思わなかっただろう。そういうことは誰にも許さなかったに違いない。だから周到に、巧妙に歌を配置しているのである。
葛原妙子は随筆集『孤宴』に次のように記している。

 またついでにここで、私のもっとも好ましい歌のあり方を述べるならば、…。故に歌は帰するところ私の独語に過ぎない。ただ独語するためには精選したもっともてきとうなことばが選ばれなければならないのである。
 …。
 ところで独語という聴き手や返事を求めない歌が、たまたま他に響いていってその人を感動させることがあり得るのだが、そのような時、私は素直にその幸福をよろこぶのである。
 だが告白すると、五・七・五・七・七という古来磨きぬかれた詩型、言い替えればこのような強い束縛の中で、いまの世にながらえているわれわれの内側を独語することはそれほどたやすいことではない、ということである。(『随筆集孤宴』葛原妙子=著(小沢書店)より引用)

つまり、読者が妙子の苦悩に気づくのを許されるのは、妙子の歌によって慰めを得、励まされる場合のみだということである。

さて、話を「愛せないという苦悩」に戻そう。第三歌集『飛行』には、「寒き日の溝の辺歩み泣ける子よ素足のキリストなどはゐざるなり」という歌が収められている。この歌は正に、「この世においては、愛することも、愛されることもない」という苦悩が如実に表された歌である。唯一絶対の愛であるお方がいない、と詠っているからである。これは、ドストエフスキーが抱え持っていた苦悩に通じるものである。しかし、それ故に妙子は、ドストエフスキーを忌避したといえる。
恐らく妙子は、ドストエフスキーの中に自分と同じものを感じ取っていたのである。「人は誰をも愛し得ない」ということ、それはつまり、「誰からも愛されない」ということである。妙子は、そのことを知っている者としてドストエフスキーを感知していただろう、と。しかし、唯一絶対の愛であるお方を信じることができなければ、この《人は誰をも愛し得ないということ》を受け入れて生きていくことなど出来ない。

愛されず 人を愛さず 夕凍みの硝子に未踏の遠雪野みゆ 『薔薇窓』

第八歌集『鷹の井戸』の後に出された第四歌集『薔薇窓』の中の一首である。「愛されず、人を愛さず」に生きるというのは、「未踏」の雪野に踏み出すようなものだ、と言っているのだ。それゆえ妙子は、愛である神の元へと帰って来た。

愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。…。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。…、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。(ヨハネの第一の手紙4:8~10)

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛してくださった。(ヨハネによる福音書3:16)


生誕ののち数時間イエズスはもつとも小さな箱にいましぬ 『をがたま』