風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子51に手を入れたもの

寒き日の溝の辺(へり)歩み泣ける子よ素足のキリストなどはゐざるなり 『飛行』
葛原妙子の第三歌集に収められている歌である。裕福な医師の家に生まれながら、両親の離婚によって幼い頃に親戚の家に預けられた葛原妙子は、素足で自分の傍らに寄り添って歩いてくれるキリストなどいないと思える体験をしたのだろうか。

「キリスト先づ老いたまふ」の歌が入れられている最晩年の歌群『をがたま』には以下のような歌も入っている。
神よわが右手を掩ふことなかれ 粗草を刈る 曇天を刈る 『をがたま』
この歌から、次のような御言葉を思い浮かべる。

風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない(コヘレト11:4)
主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。主がすべての災いを遠ざけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように(詩篇121:5〜7)

この歌は、庭の手入れをしようとしている一連の最後に置かれている。

軍手に十指を嵌めて立ちゐたりわが血流のあらき薔薇色 『をがたま』
雨雲はおほきかりにき暗かりき硝子の裡に人ねむりゐき
うすら陽の差しゐるところ立ちいでて枯草の瓔珞を引摺る
フレームの光るめがねを近づけぬぎしぎしといふ草をみるべく


「キリスト先づ老いたまふ」と詠った同じ晩年に、神に抗っているのである。草刈りをするにも、庭の木の剪定をするにも年を取りすぎて、枯草を首飾りのように引き摺りながらよたよたしている。それでも、「好きにさせといてください。神よ、あなたの助けは借りない」と息巻いている。けれど、第三歌集の「寒き日の」の歌と見比べると、明らかに違っていることが解ると思う。晩年には、神に向かって詠っているのである。

妙子の生前最後となった第八歌集『鷹の井戸』では、素足のキリストは次のように詠われている。
市に嘆くキリストなれば箒なす大き素足に祈りたまへり 『鷹の井戸』
鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」(ヨハネ福音書2:16)
『わたしの家は、すべての国民の祈りの家ととなえられるべきである』と書いてある(マルコ福音書11:17)