風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

聖堂


 途中、丘の上に建つSaint-Roch教会のミサに出席した。今日はちょうど日曜日である。とても小さな教会なので、礼拝堂に全員は入らない。それでもわざわざ、車でこの小さな教会での礼拝を守るためにやってくる人がたくさんいる。そのため階段広場で青空のもとミサが行われた。何だかとても原始的である。これが礼拝の原初であり、本来の意味がここにあるような気がした。キリストの教えを伝える人とそれを聞く人。それらの人々がいれば、建物などなくとも そこは教会である。そういった物事の本質を感じた瞬間であった。(「El Camino」第2話より)

16日のブログで、「どんなにでかい美術館や博物館や教会堂やお寺をつくるより、住み心地の良い小さな家を考えることのできる建築家の方がエライ!」と書いたのだけれど、会堂などどうでも良いと考えているわけではない。
私が初めて教会に行ったのも、ここにキリスト教の教会があるとはっきり分かっていたから行ったのだ。前の会堂は小高い山の上にあって、下の道から見上げると、石段を上がった正面に入り口と十字架が見えた。
葛原妙子「あくがれてきつるにあらね ゆきずりの小さき御堂に人充ちてをり」という短歌があるが、私自身は心の奥深くにキリスト教への憧れを抱いていたのだと思う。子どもの頃から死を怖れていた私は、終わらないもの、永遠に続いていくものを求めていた。ジョバンニではないけれど、「生まれ変わるのではなくて、そんな風に繰り返して続いていくのではなくて(そんなんでなくて)、永遠に終わらないもの」を・・。そういうものを映し出す聖堂とは、どういうものだろうか?


内田樹=著『修業論』の中に、「私が自分の道場をどうしても欲しかったのは、公共施設である体育館の武道場が、あまり清潔ではなかったからである」と書かれている。
以下に、前後を引用。

 稽古の前に、私たちは道場を掃き清め、拭き浄め、稽古が終われば道場をまたていねいに浄め、窓と扉を閉めて立ち去る。道場は稽古以外には使わない。一日置いて道場の扉をあけると、ひんやりとした、粒子の細かい空気に肌が触れる。それはチャペルの扉を開けたときに感じる皮膚感覚とよく似ている。
 私が自分の道場をどうしても欲しかったのは、公共施設である体育館の武道場が、あまり清潔ではなかったからである。私たちが入ると、直前まで使っていた団体が散らかしたままのことがあった。ほうきで掃いて、雑巾がけをしても、畳の汚れや細かい埃までは取りきれない。
 床が十分に清浄でないと、私たちの身体は微妙に防衛的になる。汚れた床の上を裸足で歩くときに、私たちは気づかないうちに、床との接触面を減らそうと足裏を縮めて歩くようになる。…。隣の部屋からうるさい音楽が聞こえてくれば、耳を塞ぐ(実際に市の武道場を借りているときは、隣室がダンス教室だったので、絶え間なく大音量の音楽が聞こえてきた)。(内田樹=著『修業論』(光文社新書)より)

先に本を読んで夫にこの話をすると、夫は、「僕は、会堂は汚くてもいいと思っているんだ」と言ったのだった。この「汚い」という中には「汚れていても、みすぼらしくても」という二つの意味が含まれていたと思うが、「キリストの神様は、綺麗な所にしか来てくださらないような神様ではないから」、と言う。この言葉を聞いて、「なるほど」と思い、マザー・テレサの働きを思ったのだった。けれど、だからといって普段から掃除もせず汚い中で礼拝をしているわけではないし、汚くても煩くても良いとは私は考えない。私はあまりお掃除が好きでないので、家の掃除に力を入れるタイプではないのだが・・。

私はこのところ、ますます、フロマートカの言う「楕円の焦点」のように、物事の二つの捉え方が、二つながらに大事だと思うようになってきた。

聖堂に主とふたりきり秋深し  宮脇白夜 『聖燭』 

以下は、追加の引用。
 …、空中浮揚の話をしているところだった。
 私はこれを信仰のレベルではなく、科学のレベルで考究すべきだろうと思っている。
 世界中には「人が中空に浮いた」という無数の証言が存在する。そういう事象に対しては、「私は見たことがないので、ありえない」と断定するよりも、「どういう条件が整った場合に、『そういうこと』が起きたとされるのか」を問う方が、知性的にも学術的にもはるかに生産的だと私は思っている。
 弱さの構造は、この科学主義的な構えに通じている。
 自分自身の潜在的な心身の能力は、「潜在的」という形容詞が示すとおり、これまで現勢化したことがない。現勢化したことのない心身の能力である以上、もちろん本人はそれを見たこともないし、実感したこともない。
 そのような能力は、科学主義的立場からすれば「存在しない」。それゆえ、科学主義的な身体観を信奉する人は、「すでに存在することが現認された能力を量的に増大させる」こと以外に、身体能力の開発プログラムを構想することができない。
 武道において「身体を鍛える」という発想をする人は、程度の差はあれ、科学主義のピットフォールに陥る。「鍛える」というのは「すでに存在するもの」にしかかかわらないからである。「千里眼を鍛える」とか「幽体離脱を鍛える」とかいう言い方を、私たちはふつうしない。「千里眼」とか「幽体離脱」というのは「存在しない」ことになっているからである。
 しかし、人間の心身の能力を爆発的に開花させようと思ったら、私たちは「そのような能力が自分に備わっているとは思わなかった能力」を見つけ出し、磨き上げ、その使い方に習熟せねばならない。…。初心者は「胸を落とす」とか「肩胛骨を抜く」とか「深層筋と指先を繫ぐ」とか「腹腔を使って手を動かす」といった身体部位の使い方があることを知らない。
(中略)
 「鍛える」という発想そのものが、「弱さ」を構造化する。私はそのように考えている。
                         (内田樹=著『修業論』(光文社新書)より)



● 『アベノミクス不況』と『ユンディ・リ オール・ショパン・リサイタル』と『1120 再稼働反対!首相官邸前抗議』
まず初めに、大阪の皆さん、選挙へ行ってください。自民が嫌だの、共産がバカだの、例え事実でも(笑)、セコいことを言っている場合じゃありません。…。
(他所の事だからあまり考えていなかったが、維新は、選挙で通れば住民投票で否決された大阪都構想を蒸し返そうとしているというようなことも耳にしたりして、そういうことが繰り返されれば、この前の住民投票は何だったのかということになって、ますます政治への不信感が募りそうに思える。だから、そういうことは回避しなくてはいけないんじゃないかな、と思ったり・・。ミルトス
(大きく、中略)
と、言うことで、今週も官邸前へ
(今週はSPYBOYさんの撮られた写真を拝借して掲載させていただきます。ミルトス)












(抜粋引用)


20日金曜日の関電前は、9人くらいいたように思う。先週から4時半から5時半という時間に立っているのだが、先週は目の前の商工会議所で会合が5時前に終わったようで大勢の人が目にしてくださったようだった。
今週は、両耳にピンクのリボンをつけた黒い小さいわんちゃんが鎖にもつながれず、飼い主さんらしき人の後先になってちょこちょこ歩いてくるので、かわいいな〜と思って見ていたら、飼い主さんらしき方が、
「ご苦労様です」と声をかけてくださった。それにしても飼い主さんとのこういう関係、いいな〜と思う。そういえば、時折デモに来ている原発なんかいらんワン!」のわんちゃんも鎖につながれていなかったっけ。
(ミルトス)