風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子52

夏至の火の暗きに麦粥を焚きをればあなあはれあな蜜のにほひす 『鷹の井戸』

葛原妙子の第八歌集『鷹の井戸』「覚えがき」には次のように記されている。

 このたびの新しい歌集のために、私はかねてから「夏至の火」(一九七三年作三十首の題名)という集名を考えていたのであったが、この名は詩人、入澤康夫氏の第二詩集の書名の由を伝え聞き、礼儀としてこの美しい集名への執着を断った。ただこの全き偶然の、詩感の一致ともいうべきものにふかく心をとどめている。(『葛原妙子全集』(砂子屋書房)より引用)
夏至の火」という美しい題名の由来となったのが、上に掲げた短歌である。
この歌に続くのが次の二首である。

なにゆゑにこの一隅のしづかなる老人が新聞をひろげしばかりに
麦粥を掬へる皿に落ちてゐしおほたにわたりの影にあらずやも

この三首の少し前辺りには次のような歌等が措かれている。

慣るることも怖るることもなき猫はある距離をもて家ぬちをしたがひき
冷暗所 冷暗所とぞ背後に立てる氷庫のふるひ出でたり

この歌群を支配しているのは、冷ややかな、決して交わることの無い距離感である。
けれど私は、夏至の火」の歌から、以下のような讃美歌を思い浮かべたのであった。

讃美歌495−1「イエスよ、この身をゆかせたまえ 愛のしたたる十字架さして・・」
愛するというのは、その一面をとらえるなら、「愛する対象に自分の人生(時間)をささげることだ」と言えるのではないだろうか。
供されるために焚かれているオート・ミール(前にある歌には「オート・ミール」と出てくる)が蜜の匂いをたてている、という。これは、もちろん、現象に託した比喩である。蜜のような匂いをたてているのは、妙子自身の時間なのだ。そのことに気づいて、内心で、思わず知らず驚きの声を上げたのである。「あなあはれあな蜜のにほひす」、と。

わたしの祈を、み前にささげる薫香のようにみなし、わたしのあげる手を、夕べの供え物のようにみなしてください。(詩篇141:2)
また夕暮れに、ともし火をともすときに、香をたき、代々にわたって主の御前に香りの献げ物を絶やさぬようにする。(出エジプト記30:8)

夏至の火」には次のような歌もある。
あめつちのしづかなる日の緑葉よ神は七日目に休みたまひしと 『鷹の井戸』「夏至の火」
明き日のわが分身はくりやよりかのすきまよりあらはれいづる


わが子よ、を食べよ、これは良いものである(箴言24:13)

わたしの…、花嫁よ、わたしの園にわたしは来た。香り草やミルラを摘み の滴るわたしの蜂の巣を吸い わたしのぶどう酒と乳を飲もう。友よ食べよ、友よ飲め。愛する者よ、愛に酔え。(雅歌5:1)

わたしは麦の最も良いものをもってあなたを養い、岩から出たをもってあなたを飽かせるであろう(詩篇81:16)

かつ、主が先祖たちに誓って彼らとその子孫とに与えようと言われた地、乳との流れる国において、長く生きることができるであろう。…。
もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きたるほど食べることができるであろう。(申命記11:9、13~15)

民は森にはいった時、のしたたっているのを見た。しかしだれもそれを手に取って口につけるものがなかった。民が誓いを恐れたからである。しかしヨナタンは、父が民に誓わせたことを聞かなかったので、手を伸べてつえの先を蜜ばちの巣に浸し、手に取って口につけた。すると彼は目がはっきりした。その時、民のひとりが言った、「あなたの父は、かたく民に誓わせて『きょう、食物を食べる者は、のろわれる』と言われました。それで民は疲れているのです」。ヨナタンは言った、「父は国を悩ませました。ごらんなさい。このをすこしなめたばかりで、わたしの目がこんなに、はっきりしたではありませんか。…。サウルはヨナタンに言った、「あなたがしたことを、わたしに言いなさい」。ヨナタンは言った、「わたしは確かに手にあったつえの先に少しばかりのをつけて、なめました。わたしはここにいます。死は覚悟しています」。サウルは言った、「神がわたしをいくえにも罰してくださるように。ヨナタンよ、あなたは必ず死ななければならない」。その時、民はサウルに言った、「イスラエルのうちにこの大いなる勝利をもたらしたヨナタンが死ななければならないのですか。決してそうではありません。主は生きておられます。ヨナタンの髪の毛一すじも地に落してはなりません。彼は神と共にきょう働いたのです」。こうして民はヨナタンを救ったので彼は死を免れた。(サムエル記上14:26~29、43~45)

ダビデがマハナイムにきた時、アンモンの人々のうちのラバのナハシの子ショビと、…は、寝床と鉢、…、小麦、大麦、粉、いり麦、豆、レンズ豆、、…をダビデおよび共にいる民が食べるために持ってきた。それは彼らが、「民は荒野で飢え疲れかわいている」と思ったからである。(サムエル記下17:27~29)
旧約聖書の中で「蜜」という言葉を目にする時、私は、「愛」というものを連想する。


讃美歌233−1
主よ、みくにを きたらしませ、
もろくにをば  愛にむすび、
ゆずりあいて、 みむねのごと、
ただしきみち  ふませたまえ。

神の国とは、愛によって結びあわされた国であった。


「麦粥」について調べていて、以下のような研究論文を見つけた。


人は小麦にて生かされる―麦粥にみる、アラブ人キリスト教徒のアイデンティティの表象―菅瀬 晶子

追記
鷺・白鳥・鶴の類食ふべからずと旧約聖書申命之記    『鷹の井戸』「夏至の火」
水銀を含みにけりなしろとりの中なる鷺もつとも異(あや)

しかし、次の鳥は食べてはならない。禿鷲、ひげ鷲、黒禿鷲、…、青鷺の類、やつがしら鳥、こうもり。(申命記14:12,18)