風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

グリム童話『死神の名付け親』からオウム真理教「空中浮遊」を考える

● 小林秀雄と田河水泡と満洲。戦争協力漫画『のらくろ』とその時代。
多くの少年達が、『のらくろ』を、「存在論的」に読んでいるうちに、満洲に夢を描き、「満洲行き」を決断したと言っていい。その結果がどうだったか?そこには、歌や漫画や、政府の宣伝とは異なる現実があった。(抜粋引用)

● 小林秀雄は、満洲で何を見たか?
白い地平線から吹いて来る寒風に曝されて、一と塊りの見窄らしい家屋がならんでゐるのを見た時、僕は、千四百人の少年が、ここで冬を過すとはどういふ事であるかを理解した。(抜粋引用) 

  
グリム童話『死神の名付け親』からオウム真理教の「空中浮遊」について考えてみたい。

先ず、以前小学校で読み聞かせをしていた時に、学校に提出していた読み聞かせの記録から以下に引用する。

『死神の名付け親』(こぐま社刊『グリムの昔話4』より)、4年生で読み聞かせ
 名付け親である死神が「わしが、病人の頭の方に立っていたら、『このご病人はきっとなおしてあげます』と言って薬草を飲ませなさい。だが、わしが病人の足の方に立っていたら、その時は、病人はわしのものだよ。おまえは、『これはもう手のほどこしようがありません』と言わねばならぬ」と言い含めて、名付けた子どもを有名な医者にします。が、名付け子は王位と美しい姫に目がくらんで死神をぺてんにかけ、助かる見込みのない者を助けてしまいます。そしてその報いとして、自分の命を取られてしまいます。
 これも6年生で話した『金の腕』と同じテーマを持つお話ですが、こちらはそれに加えて、“死”という人間にはどうすることも出来ない事柄にどのように向き合うのかという、もっと深いテーマをもっているように思われます。末期ガンの患者をケアする医師や看護士のやるべき事は患者の傍らに居続けることだと聞きますが、それは人間の限界に対する謙虚さとそれを受け止める強さがなければ出来ないのではないでしょうか。
 話の初めで、貧しい親が死神に名付け親を頼む時の言葉が印象的です。「あんたは、おあつらえむきの人だ。あんたは金持ちも貧乏人も差別せずにつれていく。うちの子の名付け親になってください」

先に、「空中浮揚」についてどのように考えているかを記したのだが、これは、読み聞かせをしていた頃からの懸案であった。
オウム真理教事件は社会を揺るがす大きな事件であったので、私も事件の前後で、書かれたもの等(主に雑誌類であるが)にも注目して目を通してきたのだった。信者は高学歴で、医師免許を持つ者が中に数名いたという。
『死神の名付け親』で私は、「名付け子は王位と美しい姫に目がくらんで」と書いたのだが、欲に目が眩んでというだけでなく、これは、「死」というどうすることもできないものにどう対処するのかということがテーマとなっている、と考える。
人は無力に耐えられないとき力を欲するのではないだろうか。しかし、どんなに高い学歴を持っていたところで死に定められた者を救うことは人間にはできない。無力な自分を見詰めつづける強さがない場合、現実を振り切って、遮断して、力を求めようとするのではないだろうか。そのことの象徴的な事象が、「空中浮遊」、であったのだと思う。
オウム真理教事件は、限界に耐えきれない人間の弱さにつけ込まれ、利用された事件であったと私は思う。しかし、被害者となった信者達は同時に加害者であるのだ。加害者という被害者を生み出さないために教育はどうあるべきなのか、そんなことをずっと考えていたのだった。そうして、このような読み聞かせをしていたのであった。

神に逆らう者は力に望みをかけ、期待しても死ねばそれも失われる。 (箴言11:7)
関連過去記事
  ↓
http://d.hatena.ne.jp/myrtus77/20111204/p1


パンジーのその後は、鉢カバーの水が漏れてきたので、萎れた花の整理を兼ねて器を替えて入れた。

               ↓


花びらを落として種を作ろうとしている横で蕾がふくらんできている。
 






池坊、立花風!ってこたぁ無いか〜。











この二日ほどの雨で元気に蕾を立ち上げている苗。