風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「受肉」とは

生きるとは苦しむことです「受肉」とはそういうことです御子生まる

母が入院して母の元へと行きながら子どもや夫のことが気になり、家に帰ると病院の母が気がかりで体が二つ欲しいと思っていた頃、キリストが肉体を持って人となってこの世に来られたということがどういうことなのか、身に沁みて分かった気がした。ここにいればあちらに居られず、あちらに居ればここには居られない、神の子であるイエス・キリストはそういう人間の限界を抱えてこの世に生まれてくださったのだ、と。この頃から、クリスマスの出来事が私にとってそれまで以上にかけがえのないものとなった。


キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピの信徒への手紙2:6~8)


「キリストがベツレヘムに千回お生まれになっても、それがあなたの中ででなかったとしたら、あなたは永遠に失われたままである」(カール・バルト)


キルケゴールの時代には、このヘーゲル学派の哲学は神学思想にも入り込んだ。・・。ヘーゲルを認めなかった神学にもヘーゲル主義は入り込んでいたのである。受肉は絶対精神の瞬間である。この思考と哲学の中間に立ったのがキルケゴールであり、この考え方を近代の人間の呪われた運命であると自覚したのであった。
 神学の究極の基準はどこにあるのか。私が知っているのは偶像ではなく神であると、どこで確信できるのか。キルケゴールの時代の神学は、ヘーゲル主義の影響によって形而上学に変化していた。・・。神学は全ての信仰の問題を知性的な問題にとどめようとした。
キルケゴールは、人生は論理では片付かないということを示そうとした。・・。実存を完全に認識できるのは、神の存在の垂直線が私たちの生の水平線と交差していることを自覚する場合である。垂直線と水平線のこの交点においてのみ、私たちは実存を認識することができる。・・。なぜなら聖書の冒頭文からして論理的にはばかげている。論理的になど証明できない証言である。(フロマートカ=著『神学入門ープロテスタント神学の転換点』(新教出版社)より)


受肉は「絶対精神」の現れなどでは断じてない。受肉とは、肉体を受けて来られたということなのだから。

言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。それは、めぐみとまこととに満ちていた。(ヨハネによる福音書1:14)