風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子50


● 『GDPの下方修正』と『原発避難者支援活動のリーフレット』、映画『トム・アット・ザ・ファーム』
『お母さんを支えつづけたい: 原発避難と新潟の地域社会』というリーフレットを頂いたので感想を。
机の前で考えているだけでは決してわからない類の話だ。NPOの代表者が『支援の方法もたえず変え続けていかなければならない』と言っていたのがとても印象的だったんだけど、避難者の人たちは非常にセンシティヴな事情を抱えている。・・。
今の時代にこういう思いをしている人たちがいるということを知るだけでも自分の想像力の貧困さが思い知らされる。・・。
支援する側、支援を受ける側の肉声が詰まった、このリーフレットに触れることはひとつの『体験』だ。本で触れた知識は往々にして忘れてしまうことが多いが、『体験』に触れることは身体性を伴い、心に傷を残す。きっと、そういう『体験』こそが世の中の理不尽さに対峙する力になると思うのだ。(抜粋引用)

  
     手品師
いでてゆくしづけさありて入りきたるしづけさありぬ ここはゆふぐれ 『をがたま』

「生まれてくる」ということと「死んでゆく」ということ、潮の満ち引き、場所をゆずるということ、私たちはどこから来てどこへ出て行くのか、定型にすっぽりと収まって、そのような事柄と共に「受容」ということを思わされる。

この歌には「手品師」という前詞がおかれている。この前詞によって短歌のイメージがグンと広がるように思われる。「手品師」という言葉から「葛原妙子18」でとりあげた次の一首を思い浮かべた。

淡黄のめうがの花をひぐれ摘むねがはくは神の指にありたき 『薔薇窓』「神の指」
私はこの一首に、葛原妙子の願いが込められていると捉えた。すなわち、自らが天へとあげられる時、神の指によって摘まれて逝きたいという・・。

私たちがこの世に生まれてくるのも、また死んでゆくのも、手品師の手によって取り出されたり取り去られたりするのと同じようなものではないか、と妙子はイメージしたのではないだろうか。もちろんそのような想念はそこに留まったままであるはずがない。手品師の手は、妙子の中で「神の指」へと繫がっていったはずである。

聖書には神の手によって取り去られて居なくなった人達のことが記されている。

エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。(創世記5:24)

主が嵐を起こしてエリヤを天に上げられたときのことである。
ベテルの預言者の仲間たちがエリシャのもとに出て来て、「主が今日、あなたの主人をあなたから取り去ろうとなさっているのを知っていますか」と問うと、エリシャは、「わたしも知っています。黙っていてください」と答えた。
渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい。」エリシャは、「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」と言った。エリヤは言った。「あなたはむずかしい願いをする。わたしがあなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる。もし見なければ、願いはかなえられない。」彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。(列王記2:1,3,9~11)
又、ヨブ記には次のような言葉もある。

「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)

この「ここはゆふぐれ」の短歌に発想を得て、また葛原妙子の破調を真似て作った私の短歌擬きがある。
妙なる夕明かり満つ ふとしも花芙蓉落つ またひとつ落つ  


● 『安倍内閣を採点する』と『16か月連続の実質賃金低下』、それに『1205 再稼働反対!首相官邸前抗議!』

● ある自主避難者のママからの訴え 〜大人が守るべきものは何でしょうか?〜
そうこうしているうちに、二人の子どもは多量に鼻血を出し、心配は募る一方です。(抜粋引用)