風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

遠藤周作とドストエフスキーと、ちょこっと太宰

私がキリスト教の教会へと行き始めたきっかけはいくつかあるのだが、教会の門をくぐる前後で読んだ文学作品は遠藤周作の『沈黙』だった。それで高校時代は遠藤文学ばかり読んでいた。『海と毒薬』、『白い人・黄色い人』、『イエスの生涯』、『わたしが棄てた女』、『リヨンから』だか『リヨンにて』だかというタイトルの短編等、それから友人に勧められて『おバカさん』。言ってみれば私は、信仰へ入ろうとする初期の段階で「神の沈黙」に向き合っていたということになる。

物置を書庫に改装するというので本の移動をしていて、夫が若い頃に友人に勧められて読んだという遠藤周作の『悪霊の午後』という本を見つけた。私は読んだことがなかったので、読んでみた。二十歳を過ぎてからは遠藤文学から遠ざかっていたので随分と時が経ってしまっているのだけれど、これを読んで「『沈黙』の最後に描かれているのは遠藤氏の願望だったんだ」と解ったのだった。

読む前に、『悪霊の午後』というタイトルから、ドストエフスキーの『悪霊』を意識しているのだろうかと思って読み始めたのであるが、読み終えて、これはドストエフスキーの足元にも及ばないだろうと思ったのだった。「だろう」と推量しているのは、私自身がドストエフスキーの『悪霊』を読んでいないので断定できないということなのだが・・。そこで、清水正ドストエフスキーとの関係で遠藤作品について何か書いておられないだろうかと思い、検索をかけてみた。


● 「 清水正の遠藤周作論 」 清水正研究室

この中で、清水氏は遠藤文学を鋭く批評しながら、遠藤の信仰をも問うておられる。(7)まである遠藤周作論」の中で、「わたしの目には遠藤周作の〈宗教〉は〈カトリック〉という衣装を借りた〈母親教〉に見える」とその信仰を厳しく問いながら、しかし最後「信仰と母」の中で、「今、ここで遠藤周作の信仰を『罪と罰』に則して詳細に検証するつもりはない。ただ、ラスコーリニコフがソーニャへの愛を通して信仰の道へと踏み込んで行ったように、遠藤周作は母への愛を通して〈キリスト者〉への道を決意したことだけは確かに思える」と結んでおられる。ここには、遠藤を理解しようとする清水氏の優しさが表れていると思う。

けれど私は、清水氏の書かれたものをここまで読んで、何故罪と罰を読む気にならなかったのかを理解した。『罪と罰』にはソーニャという聖女のような女性が出てくるということを知っていたからだ。やはり私はそのあたりに引っかかっていたのだと思う。ネタバレになってしまうが、『悪霊の午後』の最後は妻の愛によって主人公が救われる設定になっている。私はこの最後のところで、この本を放り投げたくなったほどであった。

遠藤周作氏は、数あるエッセイの中で、「愛」を「愛情」に置き換えて語ることが多かったように思う。つまり、人間の「愛」を時間が育む「愛情」として肯定しているのである。ここにドストエフスキー遠藤周作の大きな隔たりがあると思う。ドストエフスキーは愛せないことに苦しんだ人だ。「愛」を「愛情」にすり替えてそこに安住するのでなく、どこまでも本当に愛することを求めた人だと思う。そこにドストエフスキーの苦悩があった。そこに又、人間の愛とは全く相容れない神の愛というものが対置されてくるのだと思う。

主よ、あなたを呼び求めます。わたしの岩よ わたしに対して沈黙しないでください。(詩編28:1)


こんなことを纏めようと思っていたところへ、山崎行太郎のブログで清水氏が語ったという興味深い言葉に出合った。「太宰治の「虚無」はドストエフスキーの「虚無」より深いのではないか、と清水教授が語り始めた・・」

それで、考えていた。
太宰については、20代の初めに人間失格奥野健男の『太宰治論』を読んだだけで、『人間失格』よりむしろ『太宰治論』の方を面白く読んで、それ以上読もうとは思わなかった。ところが、最近になって娘が家の中の片付けをするといって高校時代の国語の教科書を取り出してきた。それで、その中にあった太宰の『津軽を読んでみたのだった。そして、しばらく泣いた。何故あれほど泣いたのだろう、それを考えていた。そうして思った。私などが遠い昔にはっきりと幻影でしかないと解ってしまっている母の愛を、太宰はあのような歳になっても追い求めて止まない、そういう姿が描かれていたからだ。純粋さに泣けたというのではない。それこそ、清水氏が語ったという太宰の抱える虚無の深さに、泣けたのだ、と思う。

ドストエフスキーは「知」の人だ。けれど、太宰の中には知性のひらめきが感じられない。太宰の虚無は「知」をも呑み込んでしまうような虚無だと思える。それはきっと、太宰が「愛されること」を求めた人だからだ。ドストエフスキーは「愛すること」を求めた。「愛すること」を求めるときには、先ず、「愛する」とはどういうことであるかを明らかにしなければならない。そうしてその先に待っているのは、「人は本当には愛することが出来ない」という事実なのだ。「人は愛することが出来ない」というのは、つまり「人は誰からも愛されることはない」ということなのである。「愛すること」を求めるなら、ここに至る過程においてどうしても知的な論理的な思考過程が必要になる。ところが「愛されること」はひたすら追い求めるのみなのだ。知の人から見れば、「追い求めてもその先にはない、幻影でしかない」と解っているものを、「愛されること」を求める人はどこまでもどこまでも追い求めて止まない。この姿に泣けるのだ。この時の私の感情をどういう言葉で言い表せば良いだろうか?もっとも近いのは、やはり「痛ましさ」に泣ける、だろうか?それとも、母の愛を求めて止まない幼い頃を思い起こすからであろうか?二度と手にすることのないものへの「郷愁」であろうか?

生涯「愛すること」を求めたドストエフスキーは、最後、神に出会ったと私は確信している。「愛すること」を求めていった先には、「人は本当には愛することが出来ない」という答と共に、本当の愛であり、赦しであり、罪からの救いである神が待っているからである。虚無の深淵の中から、ティリッヒのいう「存在自体」が立ち現れてくるのである。

しかし、「愛されること」だけを求めつづける者に、根柢が開示されることはない。虚無の深淵はどこまでも深く、底を見出すことは、ない。

「矛盾にぶつからない思考が合理的なのではない。矛盾にぶつかることを恐れない思考が合理的なのである。つまり矛盾に直面しない思考とは、中途半端な思考であり、いわば矛盾することを恐れて、問題を回避した思考なのだ。」(山崎行太郎=著『小林秀雄ベルクソン』より)



● アホなニュース/勇気をもらえるニュース、消費前年割れ、★1031 再稼働反対!首相官邸前抗議!
今週 川内原発の再稼働に薩摩川内市長・市議会が同意したそうだ。住民の人たちは本当にそれでいいのだろうか。・・。
それにしても事故になれば影響を受ける周辺30キロの自治体の意見を聞かない、というのはどういうことだろうか。目先の端下金に釣られた薩摩川内と違って再稼働に反対する意思を表明している自治体もあるというのに。ボクが知ってる鹿児島の人の民意はこれだけだけど→川内原発再稼働反対59% 南日本新聞世論調査 | 鹿児島のニュース | 373news.com(←こちらのサイトにはリンク先のブログからお入りください)、やはり今の政治は民意を反映しにくい仕組みになっている。(抜粋引用)

● ジャージー魂(ソウル)!:映画『ジャージー・ボーイズ』
『フランクリン・ローズヴェルト 下 - 激戦の果てに』より
「私たちは、真の個人の自由は経済の安定と自立なしには存在しえないという事実を明確に認識するようになったのです。『困窮した人間は自由な人間ではない』のです。空腹で仕事の無い人々は、独裁制を成り立たせる要因となるのです。」(1944年1月11日、一般教書演説)(抜粋引用)