風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

会堂の玄関に・・

土曜日の夕暮れ時、会堂に入る。花が活けられた方へゆっくりと近づいて行くと、微かに花ジンジャーの香りがする。見ると、活けられた花の奥に白いジンジャーの花が顔を出していた。


こちらはまるで、天へと昇っていくようなホトトギスの花。




そして右の写真は、開きかけた白いりんどうの花とニシキギ



牧師不在の昨日の説教は最年長の長老がしてくださった。

そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。(ピリピ人への手紙2:1~11)

聖書というのは凄いものだと驚かされる。「へりくだった心をもって〜」と勧めるのに、その理由として最後、キリストが十字架にかかられたという出来事へと行き着くのである。ここにキリストの最もへりくだった姿があるからである。神であるものが神であることに固守せず人と同じ肉体という限界を持ってこの世に来てくださり、しかも十字架につかれた。人を罪から贖い出すために、なのである。ここにキリストの最もへりくだった姿が表されている。キリスト教徒なら、何度も何度も聞いてきたことだ。これはしかし言葉をかえれば、耳にタコができるほどに聞かされていることである、と言える。

この日(聖書はここまでを読み上げられたが、)長老は、パウロがピリピの教会にどうしてこのような「へりくだりの心をもって」という手紙を書き送ったのかという経緯を語った後、十字架のイエスについては語らず、イエスの「へりくだり」の姿としてヨハネ福音書に記されている「弟子の足を洗うイエス」の話へとつなげられた。そして最後に、「これは余談ですが・・」と言って、イタリア旅行をされた際のことを話してくださった。絵画や彫刻など素晴らしい芸術品であふれているイタリアの街を旅して最も感動したのは、小さな古い教会にあった弟子の足を洗うイエスの彫刻だった、と。その彫刻を見た時、私は自分の教会の玄関にもこの彫刻を置きたいと思った、と話された。私はこのお話を聞いた瞬間、長らく考えていた偶像崇拝の問題が鮮やかに解決されたと思ったのだった。偶像崇拝に陥るか否かというのは、キリストが自分の中にどっかりと根を下ろしているかどうかにかかっているのだ、と。

しばらく前に、「こんな所に教会が建っている」と、旅の途上のスペインの方が礼拝に来られた。その方が、旅のお土産を持って昨日の礼拝に再び来られた。ほとんど日本語が分からないということだったが、静かに聞いておられる。この方の中に、神が、イエス・キリストがどっかりと根を下ろしているのだろうかと、そんなことを思わされたのだった。


以下はツイート色々・・。