風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

煮物と焼き物と、『料理と科学のおいしい出会い』


「明日の夕食は秋刀魚にしよう」と秋刀魚を買っておいたのを忘れて買い物で別の食材を買って来てしまった日に、秋刀魚は煮て保存しておこうと、初めて圧力鍋で秋刀魚を煮た。圧力鍋を購入したのは鰯を骨ごと食べるためだったのだが、原発事故の後、魚を骨ごと食べるのに抵抗を感じて使っていなかった。いつものように煮汁を合わせて圧力鍋で調理し始めてから、煮汁の総量が圧力鍋にあるレシピと違うと思って焦ったが、時間はレシピ通りにした。それで、ちょっと焦がした。圧力鍋を使って焦がすって、どうよ?圧力鍋使って焦がす人っているの?と自嘲しながら翌日の夕食に出したら(骨ごと食べられて身をほぐす手間が省けるというので)意外にも家族の評判が良く、次回も煮魚でということになり、その次は圧力鍋のレシピ通り作ったらしょっぱかった。いつも私は煮魚には水を入れるのだけど、このレシピに水は入っていない。おまけに圧力鍋のレシピには落とし蓋をすると書いてあったので、豚さんの顔のシリコンの落とし蓋をして煮た。でも、圧力鍋のレシピ集にそう書いてあるから使ったけど、圧力鍋に落とし蓋って必要なのかなぁ?物理、メチャクチャ苦手。
(写真の右手前にあるのは南高梅の梅干し、奥にはゴボウ、左手前が言わずと知れた人参)


自律神経をやられているので、季節の変わり目の気温の変化が激しいときは体調が物凄く悪くなることがある。数年ぶりに頭痛が昂じて朝から胃液を吐いた日の夕食で、娘が肉じゃがを作ってくれた。これが、出来たてにも関わらず味がしみて美味しかったので、どんな風に作ったのか聞いてみた。すると、「秋刀魚を煮た時にしょっぱいと言っていたから」と言って、計って入れた調味液の量を教えてくれた。酒とみりんが50ccずつ、出し醤油30cc、水200cc。(魚を煮る時にはここに酢が加わる)。
ところが、問題は煮汁の分量ではなく作り方にあった。先ず、人参と玉葱を油で炒めて蒸し煮にしたという。この時に塩は使わなかったらしい。それから、じゃが芋を切って入れ、ひたひたの水(これが200ccだった)を加えて、酒とみりん、出し醤油は10ccだけ入れて煮て、蓋をしてしばらく置き、豚肉を加え、出し醤油を10ccずつ足していって味を整えたと言う。
醤油類を入れると固くなると思って、私はいつも水とみりんだけで先ず煮るのだが、すると味がしみていなくて作りたては美味しくないと感じる。塩は後から効いてくるように思うので、いつも先に入れる。それで作りたてを美味しく食べたいと思うとしょっぱくなり過ぎる気がする。
娘のやり方だと、下手をすると乱切りにした人参などは固くて食べられないということになりそうなのだが、先に油で炒めて蒸し煮でしばらく置いておいたのが良かったようだ。醤油類を小分けにして足していったのも良かったのだと思う。ただ、酒はお肉を入れてからふりかける方が肉の臭みを取るためには良いのではないかと思うが・・?他の調味料を入れてからお酒を入れたのではアルコール分がとばないのではないか・・?お肉も人参と一緒に先に炒めて、蒸し煮にするときに酒を入れてアルコール分をとばすというのはどうだろう?娘の作り方を参考にして、今度自分でやってみようと思う。

これはつまり、食材が柔らかくなるのと、味がしみるということの間で起こるせめぎ合いみたいなものではないか?と・・。


石川伸一先生の『料理と科学のおいしい出会い』化学同人の5章に「『おいしすぎるステーキ』の分子調理」という項がある。ただお肉を焼くだけのステーキなのだが、これがなかなか手強いものだということが良く分かる。

結婚した初めの頃、夫に「君は、魚の干物を焼くのが上手だ」と言われて、ちっとも嬉しくないと思ったのだった。夫が私の母に同じことを言った時、母も(たぶん何と応えて良いやら分からなかったからだと思うが)何も言わなかった。魚の干物を焼くのを褒められている娘を不憫に思ったのじゃないかとさえ思うのだが、『料理と科学のおいしい出会い』を読んでちょっと考え直した。