風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

自閉症の子どもと1


テンプル・グランディン=著『自閉症の才能開発』(学習研究社ー以前にもブログで取り上げたことのあるこの本の中に、次のように書かれている箇所がある。

 成長するにつれて私にとって大きな支援となった人々は、創造的で因習にとらわれないタイプの人だった。精神科医や心理学者は少しも助けにはならなかった。彼らは私の心理分析や心の暗黒面を発見することに忙殺されていた。ある精神科医は、もし私の「精神的傷害」を発見できれば私を治せると信じていた。高校時代の心理カウンセラーは、私がなぜ扉のような物に固執するのか理解したり、それを学習の刺激に用いようとしないで、むしろやめさせたがっていた。(『自閉症の才能開発』より)
若い頃、河合隼雄氏ではないユング派の精神科医の書いたものを興味深く読んでいたのだけれど、自閉症について言及した部分を読んで、これは違うと思ったことがある。狭い分野の専門性を追究してきた人は、自分の専門分野からの視点でしか物事を捉えられなくなる場合があるように思われる。
しかし心理学と一口に言っても、深層心理学もあれば教育心理学もある。教育心理学の中にも、スキナーなどの行動主義心理学もあれば、認知発達心理学、あるいは分類の仕方を変えれば、児童心理学もあれば青年心理学もある。乳幼児の心理学は認知発達心理学と密接に関連して、ピアジェの「発生的認識論」等はそれこそ生物学にまで繋がっていく。


テンプル・グランディンさん自閉症の才能開発』はタイトルから受ける印象があまり良いように思われず、私としてはどうしてこんな邦訳にしたかなぁと思うのだが(原題は『Thinking in Pictures』)、中身はとても素晴らしく、高機能自閉症であるご自身のことだけでなく、多くの他の自閉症者から聞きとった情報も記載されている。又、「生化学を信じて/薬物療法と治療」という一章を設けての薬についての詳しい情報や、「天国への階段/宗教と信仰」として信仰や宗教の捉え方についても言及されている。
この本が翻訳されて出版されたのは私が教育の現場から離れた後なので、私の取り組みはこの本に拠ってはいないのだが、自分のやってきた事を振り返るためにしばしばこの本に書かれていることを引き合いに引用してまとめることになると思う。

テンプル氏が3歳になったときにご両親が雇われた家庭教師は素晴らしい教師だったようで、その取り組みが記されている。その中に、自閉症児は学校でも家でもスケジュール化された活動が必要である。食事の時間はいつも決まっていて・・。」という一節が出てくる。
原題に『映像による思考』とあるように、テンプルさんの思考は視覚に拠っているということがこの本の中に繰り返し語られている。実際、自閉症者にとって「言葉」は、生活の中で意味を持っていないように思われる。耳から入る言葉に、音(音楽でのメロディ)としての心地よさは感じているのかも知れないが、語られている内容は意味を持たず、右から左へと流れていってしまうのではないだろうか。高機能の自閉症者やアスペルガーと言われる人達は言葉に問題が無くおしゃべりも楽しんでいるように思われがちのようだが、生きていく上で言葉が力となってはいないのではないかと思えるのだが、どうだろうか。


では自閉症者は世界をどのように認識するかというと、パターン化されたものによって認識すると言えるのではないだろうか。だから、生活を秩序正しくスケジュール化することが必要になってくる。もちろん生活のリズムを整えるのは自閉症児に限らず乳幼児を育てる時には大事な事柄であるとは思うが、幼い頃だけに限らず自閉症者にとっては周りや生活が規則正しく整っているということは生きていくために是非とも必要な事柄なのである。だから高機能の自閉症者やアスペルガーの方達を雇用している会社では、スケジュール化などによって職場の環境を整える必要があるように思う。

このパターン化、スケジュール化の必要性や視覚によって判断するという特性は、自閉症者が記憶に依拠して生きているということの現れであるように思う。自閉症児の中には、母親が衣服を変えることを嫌う子もいると聞く。池谷裕二=著『記憶力を強くする』(講談社には、「たとえば、初対面の人に会ったとき、その人はきれいな髪に水玉のリボンをつけて紺のワンピースを着ていたとします。しかし、つぎに会ったときには同じリボンとワンピースを身につけている保証はありません。もしかしたらパーマさえかけているかもしれません。もし、これらすべてのものを厳密に記憶したとしたら、再会したときにその人は別人として認識されてしまいます。これでは困ります。ですから、記憶は厳密さよりも、むしろ、曖昧さや柔軟性が必要とされるのです」と書かれている。
自閉症者の記憶は、脳の機能において厳密な記憶をするようになっているのではないだろうか。そのために耳から入る変化に富んだ言葉によって判断することが難しくなり、生活のスケジュール化や物事のパターン化が必要になってくるのだと考える。


さて、在籍していた子ども達が卒業していき、担当教師も二人から一人になって私一人が自閉症の子どもの担当になった時、私はこの生活のスケジュールを崩したのだった。子どもが入学してきた初めの頃は生活のリズムを整えることは非常に大事であると思う。けれどこの時点では、自閉症の子どもにとって、言葉に注意を向けさせることの方が、私は、より大事だと考えたのである。それまでは、朝1限目にリズム体操をした後、2限目から3限目にかけて散歩に出掛けていた。体を整えていくことはこの子ども達にとって大きな課題となるからである。しかし私は1限目のリズム体操はそのままにして、以降のスケジュールはその日、その日で自由に変えることにした。私の「お散歩に行くよ」という言葉に注目させるためである。

これが、自閉症の子どもへの私の取り組みの第一歩だった。


● 即興とは何か? 原始感覚とは何か?
 今年も、長野県の信濃大町郊外の木崎湖で行なわれた原始感覚美術祭に参加してきた。
 この美術祭の特長は、美術制作者達が、この湖の畔に寝泊まりしながら、この地の空気を吸い、水を飲み、この地で食べ、眠り、星空を眺め、集い、語らい、そうして自分の中に生じてきた感覚に基づいて作品を作り、それをどこで表現するかを決めていくプロセスにある。
 文化とは何か? 文化と文明との違いは何か?
 文明と文化の違いは、いろいろ解釈され、civilとcultivate  で説明されることが多く、文化は、「耕す」という意味だから農耕的なニュアンスが強く、文明は都市的なものだと説明されることもある。
 cultivateには「手入れ」という意味があるので、時間的な継続性、関与性が含有されている。手入れの為には対象のことを深く知っていなければならない。その為に対象と対話していかなければならない。(抜粋引用)