風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』と、「憂いの篩」

ハリー・ポッターシリーズの中には、魔法使いの話らしく読者の興味を引く色々な道具立てが出てくるのだが、中でも私が一番気に入っているのが「ペンシーブ」と呼ばれる「憂いの篩」である。「憂いの篩」は4巻で初めて登場するようだが、最終巻で、「かげのヒーロー」を解き明かすために最も重要な装置とされている。

『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』の中でダンブルドアが「憂いの篩」について説明している部分を引用してみる。
「これか?これはの、ペンシーブ、『憂いの篩』じゃ」ダンブルドアが答えた。「ときどき、感じるのじゃが、・・考えることや想い出があまりにもいろいろあって、頭の中が一杯になってしまったような気がするのじゃ」
・・。
「そんなときにはの」ダンブルドアが石の水盆を指差した。「この篩を使うのじゃ。溢れた想いを、頭の中からこの中に注ぎ込んで、時間のあるときにゆっくり吟味するのじゃよ。このような物質にしておくとな、わかると思うが、どんな行動様式なのか、関連性なのかがわかりやすくなるのじゃ」
「それじゃ・・・この中身は、先生の『憂い』なのですか?」ハリーは水盆に渦巻く白い物質をあらためて見つめた。
「そのとおりじゃ」ダンブルドアが言った。「見せてあげよう」
 ダンブルドアはローブから杖を取り出し、その先端を、こめかみのあたりの銀色の髪に当てた。杖をそこから離すと、髪の毛がくっついているように見えた−しかし、よく見ると、それは「憂いの篩」を満たしていると同じ白っぽい銀色の不思議な物質が、糸状になって光っているのだった。ダンブルドアは、水盆に新しい「憂い」を加えたのだ。驚いたことに、ハリーの顔が水盆の表面に浮かんでいた。
 ダンブルドアは、長い両手でペンシーブの両端を持ち、篩った。ちょうど、砂金堀が砂金を篩い分けるような仕種だ・・・ハリーの顔が、いつのまにかスネイプの顔になり、口を開いて、天井に向かって話し出した。
                             (『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』(静山社)より)

この場面の前のところで、ハリーは水盆を杖で突ついてダンブルドアの記憶の中にすでに入り込んでいたのだが、「憂いの篩」というものに私は、過去の記憶に沈潜していくような感覚を覚える。

生きていく中では、起こって来る様々な出来事についてはっきりとした答を得られないことの方が多いように思う。私達はそのようなものを抱えながら日々を生きている。「遠い昔のあの出来事は本当のところ何だったのだろう」−そんなことをふと思ったりすることがある。
また、一つの事象について何らかの答を出さなければならないような時に、深く考えもしないで簡単に答を出して終わってしまうことがある。そんな時は、周りから何と思われようと答を保留にして黙っているべきだったと後味の悪い思いをする。

生活の中に、「思い巡らす」とか、「醸し出す」といった時間を取り戻したいと思う。

最近、村上春樹河合隼雄に会いにいく』を読んで、こういった思いに繋がることが語られていたので、記しておきたいと思う。
村上氏が湾岸戦争の頃のことを語っているところから、抜粋引用する。
村上 それと、湾岸戦争のときにぼくはアメリカにいたんですけど、あれはずいぶんきつかったです。結局、日本人の世界の理屈と、日本以外の世界の理屈は、まったくかみ合っていないというのがひしひしとわかるんですね。・・。
 自衛隊は軍隊ですよね。それが現実にそこに存在するのに、平和憲法でわれわれは戦争を放棄しているから兵隊は送れないんだと、これはまったくの自己矛盾で、そんなのどう転んだって説明できないですよ。そこからいろいろなことがだんだんぼくのなかでグシャグシャになっていくんですよ。
 そうすると、ぼくらの世代が六〇年代の末に戦った大義、・・はいったいなんだったのか、それは結局のところは内なる偽善性を追及するだけのことではなかったのか、というふうに、・・。
 ・・。
 それからすぐ、真珠湾攻撃五十周年というのがあった。これも、ぼくが生まれる前のことですから、訊かれてもわからないのですが、やはりどうしても問題として出てくる。そうすると、また自分のなかの第二次世界大戦というものを洗い直さなくてはならないですから、これもけっこうきつかったです。・・。
・・。
 湾岸戦争と日本の関わりをどう説明すればいいのか、ぼくはいまでも考えているのですが、まったくできないですね。・・。

河合 日本は、まあ、いえば、非常にずるい方法をやっているのですね。だから、世界中がもっとずるくなったらいいんじゃないかという気がしているのです(笑)。
 ずるさの加減はどうなのかとか、ずるくなることの弊害はないかとかもっと探求して、ずるさを洗練しなければいかんのですね。それを日本人は、自分たちはずるいやり方でやっているんだと言わずにずるいことをしているから、非難されても防戦一方になりますね。
 ぼくがずるさと言っているのは、もう少し違う言い方をすると、人間の思想とか、政治的立場とか、そういうものを論理的整合性だけで守ろうとするのはもう終わりだ、というのがぼくの考え方なのです。人間はすごく矛盾しているんだから、いかなる矛盾を自分が抱えているかということを基礎に据えてものを言っていく、それは外見的に見るとやっぱりずるいわけですね。・・。
・・。

村上 河合さんのおっしゃるような洗練されたずるさというのは、自分が矛盾しているんだということをまずきっちり認識しないと、成立しないのではないでしょうか。

河合 それはそうです。

村上 でも、それは現実問題として不可能じゃないでしょうか。

河合 と、言いますと?

村上 個人ならともかく、日本という国が総体としてその「ずるさ」を認めて、自分たちが偽善的であり矛盾していることを認識しながら進んでいくというのは、これはちょっとむずかしいのではないでしょうか。

河合 そこは、どう言ったらいいのでしょうか。偽善の種類・・・アメリカだって偽善といえば、すごい偽善でしょう。

(中略)

村上 それはいまのぼくにとっての小説、物語のあり方そのものですね、ぼくの考えは、小説にとってバランスというのは非常に大事である。でも、統合性は必要ないし、整合性、順序も主要ではないということです。

河合 『ねじまき鳥クロニクル』もそのように出来ていますね。あれにあえて“クロニクル”という名前がつけてあるからよけいおもしろいんですよ。ふつう“クロニクル”といったら、やはりちゃんと時代の順番に書かれることになっているでしょう。ところが、『ねじまき鳥クロニクル』はそうなっていない。

村上 そうなんです。
                            (『村上春樹河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)より)
この対話の、私が省略した部分には河合氏の自己矛盾が露呈しているように思う。しかし又、この部分の対話を振り返った河合氏の註釈が興味深い。註釈の中で河合氏は言い訳をしているようにも見えるが、村上氏の考え続ける姿に共振して註釈を書いたようにも思える。

以下、引用。

河合 湾岸戦争について
 湾岸戦争のことは、わたしも未だに考えています。簡単に答えが出ない問題です。「矛盾を許容してやっていくのがいい」とわたしは言っていますが、それによって「解決」されたと考えてはならない、というのがわたしの態度です。つまり、矛盾をずっとかかえこみながら、答えを焦らずに実際的解決策を見出してはいくが、その矛盾にはずっとこだわっていく。矛盾の存在やその在り方、解消の方法などについて考え、言語化していく。しかし、決して解決を焦らない。そうしているうちに、最初は矛盾としてとらえていた現象が、異なるパースペクティブや、異なる次元のなかで矛盾を持たない姿に変貌する。それを待とうとするのです。
 そんな意味で、わたしの喉にはいろいろと小骨が引っかかっていて、それがいつ消化できるのやらと思って生きています。湾岸戦争は、それらの小骨のなかでも、「大きい」ものの一つです。日本人はもっともっとこれに引っかかるべきです。
                            (『村上春樹河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)より)

カウンセリングの中で、河合氏はこんなふうに答えを出さずに思いを巡らせながらクライアントの話に耳を傾けていたのだろうな、と思わされる言葉である。

この本を読んで、ねじまき鳥クロニクルを読んでみたくなった。ただ、長いので読む時間が見出せそうにないのだが・・。