風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

眠りつづける物語ー『いばらひめ』と『三年寝太郎』から

昔話の中には主人公が眠り続けるという話がある。グリム童話では『いばらひめ』がそうだし、日本では三年寝太郎の話がある。

ブルーノ・ベッテルハイムは『いばらひめ』の類話である『眠れる森の美女』について次のように書いている。
「青年期のような人生の大きな転機を、うまくのりこえて成長していくためには、活動的な時期と静止した時期の、両方が必要である。自己の内面に目を向けると、外からは受動的に(あるいは、寝て暮すように)見える。それは、その人の心の中である非常に重要な精神的過程が進行していて、外面的な行動にエネルギーを向ける余裕がない、という状態なのだ。『眠れる森の美女』のような、受動的な時期が物語の中心になっている昔話は、青年期に足を踏みいれたばかりの聞き手に、そんな時期にも物事は進行する、非活動的な時期を恐れることはない、と教える。一時的には、この静止した時期が百年も続くように思われるかもしれない。しかし、永久になにもしない状態のままということはけっしてない。この物語のハッピーエンドが、はっきりとそう教えてくれる。(中略)人は、長い沈黙と熟考、自己への集中の時期を経て、最高に完成されることもある」(『昔話の魔力』(評論社)より)

不登校やひきこもりというのは、それぞれのケースによって対応の仕方も違ってくるだろうと思う。初期の段階でのちょとしたきっかけで長いひきこもりを回避できる場合もあるだろう。が、ひきこもりが長引いて焦りを覚える時に、ひきこもることの意義を知っていることは周りにいる人間にとっても大きな助けになるだろう。
岡田尊司=著『パーソナリティ障害』(PHP新書には、長くひきこもっていた青年が父親の死とともに働き始めたという実例があげられている。

松谷みよ子の再話による昔話の中には三年寝太郎の類話が二つ載っているが、どちらも最後は嫁取り話になっている。寝続けていた寝太郎が急に起き出したと思ったら、俄然、嫁を取るための行動を開始し始めるのだ。そして目出度く長者の娘を嫁に迎える。これは、おとぎ話の中では、「結婚」が一人の人間の自己が完成されたことの象徴として用いられているためである。
又、どちらの寝太郎話も、親から「こんげな息子がこの世にあろか。どげな思いで寺子屋へやっていたと思うか」等と小言を言われながら眠り続ける様子が描かれている。こちらは『いばらひめ』よりずっと現実的かもしれない。かつて、ひきこもり青年が親を殺害するというような事件もあったが、親の介入に耐えながら自己を確立するというのは相当に強い精神力が必要ではないかと思わされる。

けれど、女性が自己を確立するには、男性よりずっと険しく長い年月がかかるように私には思われる。
『いばらひめ』では、姫と一緒に王様もお妃も百年の眠りにつく。ペローによる『眠れる森の美女』では、姫が眠りにつくと王様とお妃は城を出ていく。ここに深い意味が読み取れる。親がどんなに頑張っても、時が来なければ、眠り続ける姫を起こすことは出来ないのだ。
「たとえ、その中にノア、ダニエル、ヨブがいたとしても 彼らは自分の息子、娘たちすら救うことができない。」(エゼキエル書14:20)

朝起きられない娘をなかなか起こすことが出来ず絶望的な気分に陥りながら、宮田光雄先生の著作を読み返し、深く慰められ、わずかだけれど希望の光が見えてきたような気がした。

「いばら姫」の話も、同じです。これは、ひとたび特別の才能をあたえられた若い王女が、いわば麻痺させられたのち、ふたたび癒され救われるという物語です。しかし、このメルヒェンは、私たちに、死の眠りのあとで、いっそう力強く新しい生命によみがえり、長い孤独のあとに新しい結びつきや連帯が生まれることへの信頼を呼び起こします。たんなる空想的な恋の物語というだけのものではありません。リュティの指摘するように、メルヒェンは、聞き手のこころを信頼の念で満たす物語なのです。(宮田光雄=著『内面への旅 グリム童話から信仰を学ぶ』(筑摩書房)より引用)


百年の眠りがほしい誰からも傷つけられず傷つけもせず 鶴田伊津『百年の眠り』