風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「ここにいる」ールカによる福音書11:29~32


2014/03/09ブリュッセルで行われた反原発マニフェスタシオン
「反原発、ノーモア・フクシマ」と記した横断幕持参です。(抜粋引用)
ベルギーでも!
和歌山市でも、この日「原発いらない!」320人行進。

さて群衆が群がり集まったので、イエスは語り出された、「この時代は邪悪な時代である。それはしるしを求めるが、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。というのは、ニネベの人々に対してヨナがしるしとなったように、人の子もこの時代に対してしるしとなるであろう。南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために、地の果からはるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。(ルカによる福音書11:29~32)

「ここにいる、ここにいる」と声ききたし未知なる途(みち)をゆくときに
神は、しるしではなく、言葉をもって語りかけてくださる。御手をもって支えてくださる。

信仰の一歩一歩は・・未知への跳躍である。しかしその一歩は、自分を支えて、深淵を飛び越えさせてくれる手がある、という確信と結びついている。(フロマートカ=著『神学入門−プロテスタント神学の転換点』(新教出版社)より)

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。(ヨハネによる福音書1:1~5)

わたしの名を呼ばない民にも わたしはここにいる、ここにいると言った。(イザヤ書65:1)