私は母性というものを信用していない。それは、母性が自分に属するものだからだ。自分に属するものであるから、その負の側面が実感として分かる。だから母性というものを信用していないのだ、と思う。
島根県の民話で『さるのひとりごと』という絵本がある。
山の中に住んでいた猿が、いつもいつも山ばっかり見ているからつまらないと思い、海ばたへ出かけた。海ばたの松にのぼって枝にすわった猿は良い気持ちになって独り言を言った。「海はええなあ かぜはぶうぶうふくなり なみはどんどとうつなり さかなはぴらぴらおよぐなり 海はええなあ」すると、蟹が返事した。しかし猿は「何で勝手に返事した」と言って蟹を石で叩き潰した。そして又、木にあがって独り言を言う。返事の返ってこない寂しさに、猿は潰した蟹を丸めてだんごにして坐らせる。そして又、独り言を言う、「海はええなあ・・」。すると蟹のだんごは返事をする、「うん」。
この話は、母性の負の側面を負とは分からせないで見事に美化して表した民話だと、私は思う。
これに対して、広島に伝わる伝説には「母の乳にかみつく」というものがある。
忠左衛門というならず者がいよいよ磔にかかるというとき、母に別れをさせてくれと懇願し許される。連れて来られた母親に「おっ母の乳を吸わしてくれえ」と言い、老母が言うなりになると、忠左衛門は乳房を噛み切って、憎々しげに吐き捨て「わしがこんな悪党になったあ、みんなおっ母のおかげよ」と語り始め、最後は「おっ母、なんでおまえは、じいさまみてえに、わしをしかってくれなかったんじゃ・・」と言って泣くのである。
この最後の台詞には聞き取って再話をされた清水真弓氏の意図がもしかしたら入っているのかもしれないが、話の導入部分に出てくる「じいさま」の存在と、忠左衛門の小さい頃に父親が死んだという設定からしてこの伝説の語らんとしているテーマは明らかであると思われる。
父性を内包していない母性というものは、この忠左衛門のように、どこまでも自分の罪を人のせいになすりつけていく人間を育て上げてしまうということだ。
これは又、逆の場合も別の弊害が現れると言えるだろう。母性と手を携えていない父性というものも・・、である。
神は義なるさばきびと、日ごとに憤りを起される神である。(詩篇7:11)
あなたは罪を赦す神。恵みに満ち、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに溢れ 先祖を見捨てることはなさらなかった。(ネヘミヤ記9:17)
このような民話や伝説を読みながら、私はこんなことを思わされるのだった。
*「母の乳にかみつく」という話が載っている『日本の民話10残酷の悲劇』(角川文庫)は絶版となっているようだ。