風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

『ぬまばあさんのうた』岡田淳=作(理論社)


全部割って清々したい寒卵「いらくさのとげはいたいよ」さんより


以下は、以前書いた紹介文。

岡田淳=作『ぬまばあさんのうた』こそあどの森の物語8巻(理論社

今回は、岡田淳=作『ぬまばあさんのうた』を紹介しましょう。
♪ぬ、ぬ、ぬ、ぬ、ぬまばあさん。いつもいねむり沼の底。子どもが来ると出てくるぞ。つかまえられたら、さあたいへん。大きなおなべでぐつぐつぐつ♪と、遊び歌に歌われているぬまばあさん。こそあどの森の湖の西の岸辺で、その沼婆さんに出会った「ふたご」が命からがら逃げ出してきたというのです。
昔話などに描かれている子どもをとって食べるという魔女や山姥は母性の負の面を表しているといいます。子どもを危険から守ろうとするあまり抱え込み、子どもの成長を阻止し、終いには元の子宮に押し込めてしまおうとする。ーおそろしい魔女や山姥というのはそのような母性の否定的な面を象徴しているというのです。この物語に登場する沼婆さんの家は卵型をしていると書かれています。
母性本能といわれるものの正体はホルモンの一種で、そのホルモンは良質の睡眠によって作られ男女の別なく持っている、と以前テレビで聞いたことがあります。私も良く眠るせいか母性本能をたっぷり持ちあわせているように思えます。ちょうど娘が小学校に入学した頃は子どもが殺されるという大きな事件もあって、学校から帰るまでずっと後をついて回りたい思いに駆られたものです。学校から帰ってきて「お友達の家に遊びに行く」等と言うと、「行かなくてもいいよ」と言いたくなる程です。子どもにとって遊びと友達がどんなに大事であるか分かっている筈なのに、です。その娘も今では高校生になり、私の今の課題はそろそろ子どもから手を放して自分の人生を新たに生き始めることではないかと思い始めていたのでした。そんな時にこの物語を読んだのです。
岡田淳さんの「こそあどの森の物語」は、1巻から家族皆が読んでいて新しい巻が出るのを楽しみに待っているシリーズ物の一つでした。今回は私が一番先に読み、「とても良かった。岡田淳さんは男性なのにこんな物語が書けるなんてすごい!」と言って、夫に手渡したのでした。最後に読んだ娘の感想も「良かった。最初は怖い話かと思ったけど、最後は(実際には泣きはしなかったけど)泣けた」というもので、私の感想に近いものでした。このあたりの顛末を次回の紹介でもう少し詳しく書いていきたいと思います。


今回も前回に続いて、岡田淳=作『ぬまばあさんのうた』について書いてみたいと思います。
夫がお茶を飲んでいる横で、私はこの本の最後の方を読んでいました。そして、「この先を読み続けると泣いてしまいそうだ」と言って本を伏せてお茶を飲んだのでした。すると翌日、本を読み終えた夫が私に「あの本のどの辺が泣けそうだったの?」と聞いてきたのです。今回、そのあたりのことを書くつもりなので、お話の種明かしをしてしまうことになりそうです。
「ぬまばあさん」というのは、もともとは水の中の生きものの形をした水の精でした。水の精は水中にいると年を取らず、水から上がって人になっている間は年老いるのです。
ずっとずっと昔、人はこの辺りをユラの入り江と呼んで水の精たちと仲良く暮していたのです。やがてある水の精の時代となりました。この水の精は時々水の中に帰ったためにその地の領主3代にわたって生きていて、領主の子達の遊び相手となり教育係ともなりました。ところがその頃、大きな強い国が攻めて来るようになり、領主は子ども達を守るため、水の精に「あなたの家で子ども達においしい魚料理を食べさせてやって欲しい」と言って4人の子どもを託すのです。けれど、家に着いて料理を始めようとした途端、入り江をゆるがす大勢の声に両親を心配した子ども達は水の精の家を飛びだしていってしまいます。水の精は人と約束を交わせば、それを果たしたと自分で納得するまで生まれ変わることが出来ません。それ以来、水の精は「ぬまばあさん」となって子ども達が帰ってくるのをずっとずっと待っているのでした。
お料理が好きで、長く家の中に居て子どもを育ててきた女性にとっては自分の作った料理を「おいしい」と言って食べてもらうこと程うれしいことはないのではないでしょうか。我が家でも、夫は私の料理で育ったわけではないので、夫よりも娘の方が私の料理を喜んでくれます。けれど、子どもはいつか大きくなって家を出て行きます。
何年か経ってたまに子ども達がやって来ても、自分達が食べられるんじゃないかと思って逃げ出していく。そんな子どもの後ろ姿に向かって「待ってください!もどってくださいよう!わたしはね、魚料理を食べてくれれば、それでいいんだよ」と懇願する沼婆さんの言葉は胸に染みます。それにしても、約束を果たしたと自分で納得するまでは生まれ変われないという設定は意味深長です。私も自分の新たな生き甲斐を求めて模索していた時だっただけに深く考えさせられたのです。自分の為でなく、本当に充分に育て終えたから手を放そうとしているのだろうか、と。このままずっと家の中に居て子どもの世話をしていられるなら、その方が幸せだろうと思います。けれど、それでは生まれ変わる時を逃してしまうかもしれません。子育てを終える頃の女性の生き方について深く考えさせられる内容だっただけに、男性なのにこんなお話を作ることの出来る岡田淳さんは凄い!と思ったのでした。

以前から岡田淳さんはクリスチャンなのではないかと考えていたのだが、昨年の礼拝でゼパニヤ書の言葉を聞いて、『ぬまばあさんのうた』はこのゼパニヤ書の言葉からイメージして作られたのではないだろうかと思った。

その日が来れば、と主は言われる。魚の門からは、助けを求める声が ミシュネ地区からは、泣き叫ぶ声が もろもろの丘からは、大きな崩壊の音が起こる。(新共同訳からゼファニヤ書1:10)
岡田淳さんはやはり、聖書を良く読まれている方なのではないか、と私はますます思うのだった。