風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

『海猫宿舎』長野まゆみ=作(光文社)

雪が降りはじめる頃になると声に出して読み聞かせたくなる児童書があります。長野まゆみ=作『海猫宿舎』

《海猫宿舎》の正しい名称は「第二十一児童療養所」なのですが、誰もそんな名前では呼びません。アレルギイ症状が酷くて都会で暮らせない子ども達が海猫の声が聞こえる岬のなかほどで療養しながら学んでいるのです。それで、《海猫宿舎》と呼ばれていました。

「こんにちは、」
 男の人は親しみのある声で云いました。少年たちは一瞬どぎまぎして顔を見合わせていましたが、背の高いユンクが挨拶のつもりで頭を下げました。次のリリンは声をだして「こんにちは」と云います。彼はユンクを意識していました。いっしょにいる歳下の少年たちに自分のほうが臆病でないことを示したかったのです。

どんな所に行っても人と人との関わりの中から生まれてくる軋轢というものがなくなるわけではありません。同じような病を抱えていれば分かり合えるというものでもないように思えます。

 リリンはユンクが具合を悪くしているのをはじめてみました。《海猫宿舎》にいる子どもはみんな同じ境遇なのだということを、うっかり忘れていたのです。自分のような咳をしないからといって、ユンクが丈夫なわけではありません。
この物語は、少年達が手をつなぐことで目に見えない相手の弱さに気づき、お互いを思いやっていくまでの過程を描いていると言えます。けれどこの物語には、もっと大きな事柄が描かれていると私は思います。それは、「信じる」ということです。
「信じる」という行為の対象は、大方の場合、目には見えないのではないでしょうか。
教会での結婚は、健やかな時も病める時も相手を愛すると誓って神と人との前に約束をしますが、この約束も目には見えません。結婚届という目に見える形になったものは、離婚届という形で破られてしまったりします。けれど私達が約束を「信じる」という時には、「結婚届」という目に見えるものとして信じているのではないように思います。将来までも変わらない目には見えないお互いの想いを信じようとしているのです。
人の「想い」というものも、はっきりと目で見ることはできません。とりわけ、そっと見守ってくれている場合の誰かの想いというものは。この、目には見えにくい「想い」を、作者は、「亡くなったホドヤのお爺さん」に《海猫宿舎》のストーヴ番をさせるという「より見えにくく、信じ難い」形で描き出します。

 ふたりの行く手に、カンテラの燈がチラチラとゆれています。誰かが《海猫宿舎》のほうから歩いてくるようでした。ブナの林に燈が見えかくれしています。ユンクはその燈にじっと目をこらしていました。人影はまだハッキリと見えませんが、見覚えがあります。
「・・・・ホドヤのお爺さん、」
 ユンクは呆気にとられてその人を見ていました。確かにホドヤのお爺さんです。亡くなったはずのお爺さんが、どうしてここにいるのでしょう。
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お爺さんはカンテラをゆらしながら、通り過ぎました。顔にストーヴの煤がついています。いつもそうでした。冬のあいだ、一日も欠かさずにストーヴの番をしてくれていました。おかげで、《海猫宿舎》の子どもたちは暖かく眠ることができたのです。
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 パスカル先生と別れたユンクは、地下のストーヴ室へ行きました。よく燃えています。
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 ショウマさんは円卓にふたつならんだ椅子の一方で眠っています。机のうえに本や筆記帳をひらいたままです。
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 ユンクはショウマさんが眠っているあいだ、誰がストーヴの番をしていたのか、わかっていました。こんなに具合よくストーヴを焚くのは、ホドヤのお爺さんだけです。けれども、なぜお爺さんがここへ来ることができたのか、それはわかりません。
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 ユンクはこんなふうにリリンと口争いをするのは気が進みません。いっそのこと黙りこんでしまおうと思いましたが、パスカル先生にとちゅうで逃げださないよう諭されたばかりなので、努力だけはすることにしました。
「それぢゃ、何をしてたんだ。云ってみろよ。抜け駆けして勉強でもしてたのか、」
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「声が聞こえたんだもの、」
「誰の、」
「ホドヤのお爺さん。」
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「どうかしたのか。ユンクまでそんな寝ぼけたことを云いだしてサ。・・」
「嘘だと思うのかい、」
「嘘も何も、現実にそんなことあり得ないぢゃないか。ホドヤのお爺さんは亡くなっているんだよ。もう逢うことはないんだ。ヒバ先生がそう教えてくれたぢゃないか。」
 どうやら、ユンクはアッピの信頼を失くしたようです。
「・・・・だって、昨夜は暖かだったろう。ストーヴがついていたからだよ。」
「しっかりしてくれよ、ユンク。ショウマさんが番をしてくれたからぢゃないか。」
 アッピは呆れたように肩をすぼめて食堂をでて行きました。
                                  (長野まゆみ=作『海猫宿舎』(光文社)より)


エス様は疑うトマスに、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネ福音書20:27)と言われました。
目には見えにくいけれど、自分へと注がれている温かな眼差しを信じて生きる子どもは幸せだろうと思います。私達は、「信じる」ことの難しいこの世界に、「信じる」ということを取り戻して生きていきたいと思うのです。

トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。(ヨハネ福音書20:28~29)

日曜日、ショウマさんが《海猫宿舎》を旅立って行きました。いよいよ本格的な冬が訪れます。やがて雪は少年たちの背丈ほどにも降り積もり、燈台へ行くのもひと苦労になります。一同はヒバ先生やパスカル先生を手伝って、はりきって小径の雪かきをします。彼らの今のたのしみは、春を待って地下室にたくさんためこんである球根を庭に埋めることでした。林道にヒヤシンスやクロッカスが咲く頃、ユンクとリリンは《海猫宿舎》を卒業するのです。
                                  (長野まゆみ=作『海猫宿舎』(光文社)より)