風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』と『虔十公園林』

宮沢賢治=作『新編銀河鉄道の夜』(新潮文庫)『銀河鉄道の夜』(角川文庫)

6年生の娘に『銀河鉄道の夜』を読み聞かせていると、「それって、二人とも死んでるの?」と尋ねる。「最後まで読むと分かるんだけど、カムパネルラは死んでいてジョバンニは生きているんだけど、夢の中でカムパネルラと一緒に行ってるんだよ」と言うと、「銀河鉄道って死んだ人が乗ってるんでしょ?」と言う。ファンタジーを解さない私は「そう、分からないよね」と言ってから、娘の国語の教科書にあった畑山博の『イーハトーヴの夢』を思い出してハッとしたのだった。「そうだ!賢治は妹のトシについて行きたかったんだ」と。だから、カムパネルラと一緒に死者達の乗る銀河鉄道にジョバンニを乗せて行かせたのだ、と。

宮沢賢治については様々な人が研究していて様々な説がうちたてられているようだ。又、原稿も賢治が死の直前まで改稿しているようで、私が娘に読み聞かせた昭和36年新潮文庫から出た初期型と、平成元年に出た最終稿とでは、後半部分が随分違っている。
娘に読み聞かせたものでは、「僕たちいっしょにいこうねえ」と、ジョバンニがカムパネルラの方を振り返ると、カムパネルラがいなくなっていて、ジョバンニが咽喉いっぱい泣きだす。そこへ、ブルカニロ博士が現れてジョバンニに様々なことを話して聞かせる。「みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう。けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう」−途中、銀河鉄道にクリスチャンらしき青年が乗って来るのだが、その青年は乗っていた船が氷山にぶつかって、葛藤の末にボートを他へ譲って死んだのだった。その後、汽車の中でジョバンニはこの青年達と神さまについて論争になりかけるのだが、博士のこの言葉はその時のことを言っているようだ。
博士は様々なことを言って聞かせ、最後に「おまえはもう夢の鉄道の中でなしに、ほんとうの世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない」と言ってジョバンニを現実へと引き戻す。ところが、最終稿とされている新編では、このブルカニロ博士は全く出ては来ない。カムパネルラの姿が消えているのに気づいたジョバンニがはげしく泣いた後、夢から覚めるという風に、ブルカニロ博士の登場するあたりは全て削除されている。
平成8年に角川文庫から出た『銀河鉄道の夜』の解説で河合隼雄氏は賢治文学について「非情のかなしみ」という表現を用いて解説しているが、賢治が亡くなる前に改稿されたというこの新編を読むと、「死」という非情なものにぶつかってはね返され、激しく泣くしかなかったジョバンニの「非情なかなしみ」がはっきりと表されているように思う。友と別れて一人戻って来なければならなかったジョバンニには、信仰についての論争も、「信仰も化学と同じようになる」(新潮文庫昭和36年版『銀河鉄道の夜』より)という実験も意味を持たなかったのではないだろうか。

永遠の命を信じる私達キリスト教徒も最愛の人との別れのまえにはその信仰も力を持たないように思えることがあるかもしれない。
けれども、聖書はこう告げている。

天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、・・、
                    (伝道の書3章1節、4節)

神様は私たちのために泣く時、悲しむ時を備えていてくださる。


宮沢賢治=作『虔十公園林』(『新編 風の又三郎』(新潮文庫)より)
「虔十はいつも縄の帯をしめてわらって杜の中や畑の間をゆっくりあるいているのでした。雨の中の青い薮を見てはよろこんで目をパチパチさせ青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹を見付けてははねあがって手をたたいてみんなに知らせました」と始まる『虔十公園林』の虔十は子供等からもばかにされていた。その虔十がある日、両親に「杉苗七百本、買って呉ろ」と頼む。そして、「あんな処に杉など育つものでもない、底は硬い粘土なんだ、やっぱり馬鹿は馬鹿だ」と周りの人々に言われながら、その苗を家のうしろの野原に植える。何年か経って、杉林に子供等の笑い声が聞こえるようになった頃、虔十はチブスにかかって死ぬ。虔十が死んで、村はどんどん変わって町になっても、虔十の杉林はそのまま残り、近くの学校の運動場の続きのようになって、子ども達はそこで育っていくのだった。

宮沢賢治という人は、自分の信仰と他者の信仰の一致を追い求めていた人ではないかと私は思う。妹トシが持っていた信仰との葛藤と影響というテーマで、ノートルダム清心女子大学山根知子氏が興味深い論考を書いておられる。私の考えは山根氏の考えと全く同じというわけではないのだが、この妹トシの死後、賢治はこの信仰の一致を『銀河鉄道の夜』において追究しようとしたのだと、私も思う。しかし、それを追い求めた結果、行き着いたのは主人公のジョバンニが激しく泣いて夢から醒めるという最後だったのだ。けれど、この『銀河鉄道の夜』の最終稿でジョバンニが激しく泣いたということと共に残ったものがもう一つある。それは、「みんなの本当の幸いのために生きる」という賢治の思いである。

賢治の作品は、いつ頃書かれたものなのかすべてが分かっているわけではないようだ。だから『虔十公園林』の構想がどの時点で生まれたものなのかは私には分からない。けれど、この、「みんなの本当の幸いのために生きて死ぬ」というテーマは『虔十公園林』の中で結晶しているように思われるのである。

『虔十公園林』の最後はこんな風に終わっている。

 全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂い、夏のすずしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本当のさいわいが何だかを教えるか数えられませんでした。
 そして林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみじかい草にポタリポタリと落としお日さまが輝いては新らしい奇麗な空気をさわやかにはき出すのでした。

参考書籍:山根知子=著「銀河鉄道の夜ー妹トシと成瀬仁蔵の宗教意識からの一考察ー」
     (佐藤泰正=編『宮沢賢治を読む』(笠間書院)より)


東逸子=画『銀河鉄道の夜』(くもん出版

「こどもの本の読書会」 ♪ 向島こひつじ書房+こすみ図書presents での『銀河鉄道の夜』の様子はこちらから
     ↓
http://d.hatena.ne.jp/kohitsuji_kosumi/20130629/p1