風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

柏葉幸子の描く物語ーその2

柏葉幸子=作『天井うらのふしぎな友だち』(講談社文庫)
      『かくれ家は空の上』    (  〃  )
      『ドードー鳥の小間使い』  (偕成社

柏葉幸子さんのお話には必ずと言って良い程、自分の思いをちょっとがまんして周りの人の為に行動する男の子や女の子が登場する。けれど、柏葉さんの描くお話はどれも痛快で、湿っぽさや悲壮な雰囲気は微塵も漂っていない。そして、自分の気持ちをちょっと押さえて人の為に行動するといった事がお説教じみていたり、鼻につく感じがしたりしないのだ。お話の中にさりげなく忍ばせているという具合。けれど、この人の作品を色々と読んでいくと、そういう男の子や女の子を大切に描いている事が良く分かる。中でも、それが際立っているのは『天井うらのふしぎな友だち』だ。

又、ドードー鳥の小間使い』『かくれ家は空の上』を読んでいると、私は星の王子さまを思い浮かべてしまう。けれど、『星の王子さま』のように悲しくはない。

ドードー鳥の小間使い』では、小学5年の男の子「タカ」がわがままなドードー鳥に振り回される。『かくれ家は空の上』では主人公の「あゆみ」が、臭くて、汚くて、口の悪い魔女の世話をする羽目になる。けれど、これらのお話に悲愴感が全く感じられないのは、この作者が人間の限界というものをわきまえているからなのだと思う。主人公達はぶつぶつ文句を言いながらも厄介な者達と関わっていく。けれど、それは人間の出来る範囲内でのことだ。人間をどこまでも人間として描いている。ファンタジーを描きながらリアリティーに貫かれているように思えるのはそのためかもしれない。

若い頃、「あなたの心が痛むほどに愛しなさい」というマザーテレサの言葉を聞いた時に、良く分からないと思った記憶がある。それから、私自身が「愛するとはどういうことだろうか」とずっと考えながら生きて来て、この頃になってこの言葉を又思い起こすようになった。本当に誰かを愛そうとすると、愛しきれない思いに心が痛いと思うことがある。そうして、自分の愛せ無さに行き当たって心が痛むまで愛そうとした時にだけ、本当の愛というものがどういうものであるかを知ることが出来るのではないか、と思うようになった。

星の王子さまは自分の星に置き去りにしてきたバラの花の所へ帰ろうとしてヘビに咬まれて死ぬ。体が重すぎて持っていけなかったからだ。

「ぼく、とてもこのからだ、持ってけないの。重すぎるんだもの」(『星の王子さま』(内藤濯訳)より引用)

星の王子さま』には愛そうとして愛しきれない人間の悲しさが描かれているようで、若い頃から、読むたびに胸が塞がれるような気持ちになった。けれども柏葉幸子さんのお話の中では、主人公達は、人のためにちょっとだけ自分の思いを我慢すれば良いのだ。誰かの為に命を捨てるような事までしなくても良い。

「誰かの為に自分の思いをちょっとだけ我慢する」ーお話の最後に約束されているハッピーエンドは、そんな男の子や女の子への作者からのご褒美のようだ。