風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

『スノーホワイト』と『白雪姫』

この夏、映画『スノーホワイトを観た。

映像的には、スノーホワイト役のクリステン・スチュワートと継母役のシャーリーズ・セロンの美の競演といった感じだったが、内容的にも、グリム童話の『白雪姫』をずっと現代的にしながら深みのあるものになっていた。

1857年に出たグリムの最終版『白雪姫』では、「その子が生まれるとすぐ、おきさきはなくなりました。」(『子どもに語るグリムの昔話』(こぐま社))と書かれている。童話には必要最小限の事柄だけが描かれるから、「だから、白雪姫は女性的な事を母親から何も教えてもらえなかったのだ」等とは書かれていないが、お話の展開を見ていくと、そういう設定になっていると思う。
森の中で、白雪姫が小人の家に住まわせて貰うためには小人の家をきちんと片付けておかなければならなかった。「もし、おまえが、家の仕事をしてくれて、つまり、ごはんごしらえをしたり、寝床をととのえたり、せんたくをしたり、針仕事をしたり、あみものをしたり、それから、うちのなかを、きちんときれいに片づけておいたりしてくれるなら、ずっと、ここにいてもいい」(『子どもに語るグリムの昔話』(こぐま社))。それが、住まわせて貰うための条件だったのだ。つまり、男でも女でも日々の生活、殊に食べることに関して自分でどうにか出来なければ生きていけないということなのだ。今では24時間営業のコンビニ等もあるから、すんなりそういった図式に当てはまらない場合も多々あろうが・・。

これに対して、継母が白雪姫を亡き者にしようとして使用する道具達は着飾るための胸紐だったり、髪をとかす櫛だったり、見かけの美しい毒りんごだったりする。

このグリム童話の『白雪姫』からは、私は、次のような聖書の言葉を思い浮かべる。

あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく、かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。(ペテロの第一の手紙3:3〜4)

一方、映画『スノーホワイトでは、母親はスノーホワイトがある程度の年齢になるまで生きている。そして、弱っている生き物を保護するスノーホワイトの優しさを認め、その心を宝物として大事にするように語りかける。映画の中では、実母から女性的な美質を身につけるための語りかけ(呪文でなくて祝福の言葉)を受けて、スノーホワイトはすでに女性としての特質を備えているのである。

女性であれ男性であれ、成熟した人間の中には女性的な美質も男性的な美質も兼ね備えられている、と言う。おとぎ話の中で用いられる結婚という形式は、一人の人間の成熟した姿を表している、と言われている。そういった意味では、映画『スノーホワイトはおとぎ話ではない。おとぎ話の形式をとらない素晴らしい自己確立の物語だと言える。

私がこの映画から思い浮かべた聖書の言葉は次のようなものだった。

わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。(コリント人への第二の手紙3:18)
鏡というのは、この物語の最も大切なキーワードである。

彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。(ヨハネの黙示録17:14)

ところで、スノーホワイトの中には三人の母が描かれている。シャーリーズ・セロン演じる継母の立場から観れば、この映画は悲しみ深い物語である。娘にとって母親というのは、言葉によって呪縛する魔女にいつでもなり得る存在なのだと思わされる。1812年に出されたグリム童話の初版では、白雪姫の美しさに嫉妬し殺して肺と肝臓を食べようとするのは、継母ではなく実の母親なのだ。

又、面白いのはラストで、グリムの初版では、王子の召使いによって腹立ち紛れに背中を殴られることでりんごが飛び出し白雪姫は生き返るのだが、最終版では、棺を運んでいた召使い達が木につまずいた拍子にりんごが飛び出して生き返るようになっている。
はてさて、映画のラストは・・。


参考図書:『子どもに語るグリムの昔話2』(こぐま社)
     『初版グリム童話集2』(白水社