風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子15

「ラビ安かれ」裏切のきはに囁きしかのユダのこゑ甘くきこゆる『原牛』
「葛原妙子12」で私はこの短歌を取り上げて、「ここにも、イエスを十字架にかける罪ある者として自らを捉える視点が働いている」と書いたのであったが、考えてみれば、裏切るというのは、信じていなければ成り立たない行為ではないか、と思ったのだった。


又、「葛原妙子14」で取り上げた短歌、

南風のしづまる街にかたへなるたしかめがたくうすらなる人『原牛』
この短歌についても、神が確かめがたいのは何も葛原妙子に限ったことでなく私達にしたって神を確かめることなどできはしないのだが、この短歌は、確かめることは出来ないけれど「うすぼんやりとでも見えている」ということを詠っているのではないか、と後になって思ったのだった。


葛原妙子14 - 風と、光と・・・」で引用したエマオでの出来事を記したルカによる福音書24章31節の続きには、こう書かれている。

二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。(ルカによる福音書 24:32)
人生の途上で葛原妙子も、「神などいないではないか」という思いに捉えられながら、ある時、ぼんやりとキリストを見、一瞬心が燃えるような思いに捉えられるということがあったのではないか、と思う。もちろん、そう言えるためには、「うすらなる人」がキリストを表しているということが前提になくてはならないが・・。



下は私の拙い歌。

奇跡など起きることなき世に生きて昏るるエマオにまみゆる奇跡