風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

説教

『聴く』10月、11月号

11月は逝去者記念の月として、今年亡くなられた方の葬儀の辞を掲載した。 この方はご自分で葬儀のための聖書箇所を選んでおられた。 主は新しい歌をわたしの口に授け、われらの神にささげるさんびの歌をわたしの口に授けられた。多くの人はこれを見て恐れ、…

神の愛に偽善はない!(ローマの信徒への手紙 12:9~10からの説教)

ローマの信徒への手紙 12:9~10(新共同訳)からの説教抜粋 9節「愛には偽りがあってはなりません。」 実は、原文は「愛」という単語と「偽善ではない」という一つの単語との二つの単語だけで、動詞はありません。ですから元の文章には「あってはならない」…

「そこには草がたくさん生えていた」(ヨハネによる福音書6:10)

聖書:ヨハネによる福音書 6:1〜14(新共同訳) イエスが病人たちになさったしるしを見た大勢の群衆が、後を追ってきました。 福音書は「山に登り」と表現していますが、おそらくは湖近くの小高い場所で、大勢の人たちが周囲に集まることのできる場所に行か…

『聴く』2020年9月号

2ページ、3ページには教会員による「『放蕩息子』の独り言」を掲載。が、ここでは割愛する。

「バビロンの流れのほとりに座り シオンを思って、わたしたちは泣いた」(詩編 137:1~9から説教全文)

聖書:詩編 137:1〜9(新共同訳) 詩人はバビロンの流れのほとりに座り、涙を流します。 彼は、バビロン捕囚によりエルサレムからバビロンに連れてこられました。 彼の故国 南ユダは、新バビロニアによって滅ぼされました。その際、バビロニアの王ネブカド…

『聴く』2020年8月号

〈 本の紹介 〉内田樹=著『レヴィナスと愛の現象学』 引用部分に囲みを入れるのを忘れて印刷してしまった。 印刷してから何かしら不具合が見つかって、完璧に出来たためしがない。 下は、今日の玄関の花。 昨日、開きかけていた2つ目のが、 今朝はしっかり…

神は、捨てることをさえ用いて・・(礼拝説教より)

聖書:ローマの信徒への手紙 11:11~15(新共同訳) パウロは同胞イスラエルの救いが心にかかります。9〜11章でパウロはイスラエルについて語ります。10:1では「わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」と書いています。 …

祈りは、無力を知ったところから始まる

祈りについて考える会合の中で、一人の青年が、クリスチャンでない友人に祈って欲しいと頼まれたという話をしたそうだ。試験に受かって単位が取れなければ資格を習得できないから祈って欲しい、と。その時この青年は、自分が祈ったからといって試験に受かる…

神さまは、祈ることを、美しいことと見ていてくださる

「地の塩、世の光とされて」マタイによる福音書5:13-20 堤隆牧師説教 この立派な行いというのは、元の言葉は良いとか美しいという言葉が当てられています。「良い行い」、「美しい行い」、人が見て心惹かれる業、自分もああなりたい、自分も行ってみたい、そ…

「『良かった!』と整えられた世界にアダムとエバは置かれた」ー 5月24日主日礼拝説教

聖書:創世記 1:27〜28 ローマの信徒への手紙 8:19〜23(新共同訳) 現在、新型コロナウィルス感染拡大の状況を鑑み、礼拝堂に共に集うことを控えております。この間、アメリカ合衆国長老教会が子どもたちのために作成しました『はじめてのカテキズム』に…

薔薇を脇役にして・・(「薔薇が弱ってきたので・・」追記)

咲き誇る薔薇の下に、黄色い蕾をつけた植物が佇んでいる。 なんだろう?と思っていると、 下から開き始めた。 そう言えば、教会員のお一人が、「薔薇の下にジギタリスを植えたんですけど、出てくるかどうか?」と仰っていた。礼拝が休止となって、これじゃぁ…

ヨハネによる福音書3章1~15節の日曜学校でのお話(追記あり)

今日は、ファリサイ派に属するニコデモという名前のイスラエルの指導者のお話です。 ファリサイ派というのは、律法を一所懸命に守ることで救われようとしている人達のことです。その中でもニコデモさんはイスラエルの人々を教える教師でした。皆から「先生」…

「ラザロの復活」とソーニャ− ドストエフスキー『罪と罰』26

『罪と罰』の中で、ソーニャがラザロの復活を記した聖書個所を朗読する場面があって、それについて書こうと思っていたのだが、最近夫が買ってきた本の中にその場面について言及しているところがあったので最初に引用させて頂こうと思う。 ソーニャは、現実の…

礼拝休止中の主日礼拝の流れ(4月26日)

公同の教会と共に、神に礼拝をささげましょう。 〈招詞〉「詩編 95:6~7」わたしたちを造られた方 主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。主はわたしたちの神、わたしたちは主の民 主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声…

行き場(居場所)がない! - ドストエフスキー『罪と罰』25

ここまでくれば、ラスコーリニコフの意識における「プレストゥプレーニエ」、人間の掟をふみ越える「新しい一歩」とは、たんに高利貸の老婆に対する殺人行為だけを意味したのではなく、より広範な社会的、哲学的意味、マルメラードフの言う「どこへも行き場…

礼拝休止の中での礼拝(三密を避けて・・)

全体での礼拝休止の中、役員数名と牧師の家族だけの礼拝が行われた。 はじめてのカテキズム問い1〜2 2020年4月19日(日)主日礼拝 聖書:イザヤ書 43:1 ガラテヤの信徒への手紙 4:4〜6 ヨハネの手紙一 4:9〜10(新共同訳) きょうからしばらくの間、新型…

2020年4月号の『聴く』

3頁目は、長老の文章で「忘れ得ぬことば『聖書は聴くものですねェ』」を掲載したが、ブログに載せる承諾を得ていないので、省略する。 イースターなので、咲き始めた色鮮やかな ツツジを。 イースターの今日まで通常の礼拝を行ったが、次週から礼拝もしばら…

「十字架」(2020年4月5日礼拝説教より抜粋引用)

説教「十字架」 聖書:マタイによる福音書 27:32~54(新共同訳) (略) ここには人間にとって最も辛いことが、凝縮されているかのようです。理解されない、拒絶される、捨てられる、あざけられる、あなどられる。肉体的な痛みと精神的な苦しみのすべてが…

罪の世で傷を負いながら生きるわたしたちには・・(説教)

聖書:ヨハネによる福音書 5:1~9a(新共同訳) ガリラヤのカナで二回目のしるしをなされた後、イエスは祭りがあったのでエルサレムに行かれました。 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があり…

2020年3月号の『聴く』

この庭は小鳥たちがたくさんやって来てバードウォッチングにも最適なのだけど、私の技術ではなかなか写真には撮れない。

自分自身をかけて・・(ヨハネによる福音書 4:39〜42より礼拝説教)

聖書:ヨハネによる福音書 4:39〜42(新共同訳) 昨年の9月からこの 4:1 から始まるサマリアのシカルで名も知られぬ女性とイエスが出会われた話を聞いてきました。きょうはその物語の最後の場面です。 イエスの一行はガリラヤへと行く途中、サマリアのシカ…

2020年2月号の『聴く』

〈 聖書を読む 〉

2020年1月号の『聴く』

2ページ、3ページには、見開きで教会員の讃美歌紹介を載せた。 この部分、略。

「あなたに必要なのは空気なんです、空気、空気なんです!」 - ドストエフスキー『罪と罰』17

あなたは、第一に、もうとうに空気を入れかえなくちゃならなかったんです。まあ、苦しみもいいものですよ。苦しまれることですな。ミコライが苦しみを望んでいるのも、正しいことかもしれません。そりゃ、信じられないのはわかりますがね、妙に理屈をこねな…

「神がいるなら、どうしてこんな悲惨な事が起きるのか!」 - ドストエフスキー『罪と罰』

マタイによる福音書2章13節から23節からの説教(抜粋) このような悲惨な出来事に直面致しますとわたしたちは神の存在を疑いたくなります。なぜわたしたちを愛し、救おうとしておられる神がいるのにこのような事が起こるのだろうか。わたしたちは自問自答し…

「彼はナザレの人と呼ばれる」(マタイ2:23)− 降誕節後第一主日礼拝説教より抜粋

マタイによる福音書2章13節から23節からの説教(抜粋) 神はヘロデの死後、ヨセフをガリラヤのナザレヘと導かれました。父ヘロデ同様残虐な王アルケラオがユダヤを治めていたからです。 このガリラヤという所は、イスラエルの北のはずれの地方で、神の民より…

『聴く』12月号

〈 聖書を読む 〉マタイによる福音書26章26節 イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、(マタイによる福音書26:26 口語訳) 10月の聖書を読む会は、〇〇〇さんの要望で「聖晩餐」について話すということでした…

突然、エピローグへ − ドストエフスキー『罪と罰』6(訂正あり) 

彼女はいつもおずおずと手を差しのべた。ときには、彼にふり払われはすまいかと恐れるように、まったく手を出さないこともあった。彼は、いつもしぶしぶとその手を取り、いつも怒ったように彼女を迎え、ときには彼女が訪ねてきている間、かたくなに口をつぐ…

『聴く』11月号

〈 弱い自分に決意をさせてくれる讃美歌 〉 〇〇〇〇〇 主よ、終りまで仕えまつらん。 みそばはなれずおらせたまえ。 世のたたかいははげしくとも、 みはたのもとにおらせたまえ。 讃美歌338番 (本文は省略する) このところ長老、執事に原稿を依頼して、書…

等価交換の信仰ではなく、神の懐へと立ち帰って神の喜びを喜ぶ信仰へ

20日の日曜日は、前の教会で昨年お呼びした先生の教会との説教者交代、講壇交換だった。 今回は、「クリスチャンは死んでも大丈夫なんです」という言葉は出てこなかったが、バルトは元よりハイデッガーにまで言及され、名前こそ出なかったものの、マルクス資…