風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「はじめまして(^^)」(夫の音声配信から)

 

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ブログを始める切っ掛けになったのは、2016年に心不全で1ヶ月あまり入院したことです。予想していなかった病気になり、自分の生涯の終わりが思っていたより早いかも知れないと思ったことです。

それまでは自分がする聖書の話は完璧ではないし、未熟なものを不特定多数の人の目に留まるようにするのに抵抗がありました。

それが心不全のために、自分が聖書を伝えられる時間に限りがあることを意識するようになりました。

そして、ためらっている場合ではない、機会を活かして聖書の言葉を伝えていこうと思うようになりました。(抜粋)

 

わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。…。

ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。(コリントの信徒への手紙二4:5,7)

 

 

 

目が覚めて眠れぬままに夜の海見ていたと聞けば何かせつない

 

烏賊釣りを生業とする人もあり夫が入りける循環器内科

目前に手術を控へその先に死を見つめゐる療友もをり

ここで我なにを語らむキリストの来たり給ひし海辺のまちで

 

 

 

 

 

 

「マルコによる福音書2:1〜12からの説教」原稿が見つかった。

夫のパソコンの中にマルコによる福音書2章1~12節の説教原稿が見つかった。最後はメモ風で完全原稿にはなっていないようだが・・。 

 重い皮膚病の人を癒されてから数日後、イエスは再びカファルナウムに戻ってこられました。おそらく前回滞在されたシモンとアンデレの家(1:29)におられたのではないかと思いますが、イエスがおられるということが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになってしまいました。するとイエスは集まった人々に神の御言葉を語り、神の国の福音を教えられました。

 するとそこへ4人の男の人が中風の人を寝床のまま運んで来ました。この人は病気のため麻痺があり、寝たきりで言葉も十分に話せなかったようです。4人の人たちが息子なのか友人なのかは分かりません。いずれにしろイエスが来ているという話を聞いて、中風で苦しむこの人をイエスのもとに連れていかなくてはならない、と考えました。イエスなら癒してくださるに違いないと思ったのでしょう。

 しかし来てみると、既に大勢の人でいっぱいでイエスのもとに連れて行くことはできませんでした。けれども、この4人はあきらめませんでした。そこで彼らは屋上に上がり屋根をはがして中風の人をイエスの前に吊り降ろすことにしました。ユダヤの家は屋根は平らで、木の枝を編んだものの上に粘土が敷かれていました。これは毎年秋になると雨期の前に修理をしなければならない程度のものでした。ですから、家の外には屋上に上がるための階段がついている家が普通でした。4人はこの階段を上がり、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろしました。勝手に人の家の屋根をはがすなどとはとんでもないことですが、毎年の修理を必要としているような屋根ですから彼らも自分たちの家で毎年やっていて後できちんと直すからと思ってやったのでしょう。とにかく,彼らは何としても中風の人をイエスの前に連れていかなくてはと考えていたのです。

 

ここまでは聖書のあらすじを辿っている。

 

 中にいた人々は驚いたでしょう。上の方で音がすると思ったら、屋根がはがされて床に寝ている人がつり降ろされてきたのですから。

 しかし、イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。エスは中風の人の信仰を見てではなく、その人をイエスのもとに連れてきた4人の信仰を見て「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのです。

 このイエスの言葉はわたしたちに疑問を引き起こします。本人の信仰で判断されるのではないのか、と。

 しかし、わたしたちは考えてみなくてはなりません。わたしたち自身がイエスのもとに導かれたときのことを。わたしたちはどうやってイエスを知ったのでしょうか。

 わたしたちが導かれた教会があったのはなぜか。わたしたちの救いを願い、キリストを述べ伝え、教会を建てた人たちが先ずいたのです。

 わたしたちの信仰が最初にあったからキリストを信じるようになったのではありません。何よりもまず最初に神の愛があり、そしてイエス キリストによるほか救いはないと信じて、わたしたちをイエスの前に連れていこうとした人々の信仰があったのです。

 わたしたちは本人にその気がない、信仰がないなら仕方ないと思ってはいないか。

 イエスはわたしたちの信仰を見て、わたしたちの愛する者に「子よ、あなたの罪は赦される」と語りかけてくださるのです。イエスはわたしたちの信仰を、祈りを受け止めてくださいます。わたしたちは自分の小ささとか弱さに心を向けるのではなく、イエス キリストに心を向けて大胆に信じ、イエス キリストに救いがあることを信じ、祈りましょう。

 わたしたちの業は欠け多いかもしれない。けれど,イエスはイエスご自身を信じる信仰を見て「子よ、あなたの罪は赦される」と語りかけてくださるお方なのです。

 

 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えました。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」

 

 律法学者の考えは正しい。神おひとりのほかに罪を赦すことのできるものはいない。この律法学者たちの思いはイエスが一体誰であるかを指し示すものとなる。

 

 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり,床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。

 

 人には赦しの言葉を言うことの方が易しい。言うだけだし、検証できない。

 しかし、神の言葉は出来事になる。神の言葉は空しくならない。赦しをなすためにイエスは人となられた。わたしたちの罪を負い、裁かれ、命を捨てるために人となられた。

 中風の人も、連れてきた人たちも癒しを求めていた。しかし、本当に解決されなければならない問題は罪。わたしたちにはその重さが分からない。しかし、イエスはそのために命を差し出した。本当に罪の赦しがわたしたちには必要。

 人々は皆驚き、「このようなことは,今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。しかし、本当に驚くべきはイエスの十字架。神の思い、神の愛、その御業の偉大さを知って神を讚えよ!

 

「神おひとりのほかに罪を赦すことのできるものはいない。この律法学者たちの思いはイエスが一体誰であるかを指し示すものとなる」ー こういったところは、マルコ1章1節の「神の子イエス・キリストの福音の初め」に立ち戻っていると言えるように思う。

 

そして、「中風の人も、連れてきた人たちも癒しを求めていた。しかし、本当に解決されなければならない問題は罪。わたしたちにはその重さが分からない。しかし、イエスはそのために命を差し出した」。

 

こういう説教を聞き続けてきたから、私自身が、今のこの(夫が倒れるという)事態に揺るがずにいられるのだと思える。

 

しかし、自分の罪を自覚・認識出来ない人や、人間の力を自負している人は、こういう説教は受け容れられないだろうと思う。

 

 

myrtus77.hatenablog.com

 

 

 

 

 

癒やしの奇跡を語るということ

 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」エスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。(マルコによる福音書2:1~12)

 

体調を崩して祈り会を欠席した。昼間陽に当たりすぎて銅がやられたせいか少し目眩もあった。その日に予定していたこの聖書箇所を横になって読んでいた。

(祈り会では近隣の教会の牧師の説教録音を聞いている。その日は予定の録音テープが見つからなかったということでその先の箇所に変更したそうだが・・。)

 

癒やしの奇跡について語るのは本当に難しいことだろうと思う。それは、現実の中で癒されないことの方が圧倒的に多いと思えるからだ。

私自身、生まれたときからアトピー性皮膚炎と言われ、厳しい除去食をしたにもかかわらず二十を過ぎてから薬の副作用で未だに苦しみ続けている娘を抱えている。夫も長年飲んでいた薬によって体質が逆転し、新たな病気になり、今はまた再起できるかどうかも分からない病の床に伏している。

そういう人間には、安易に語られる癒やしの奇跡の説教は上滑りで心に響いてこないものとなる。説教者自身が神から聴き取った神ご自身の御言葉でなければ通用しないのではないかと思う。私自身がそういう所に置かれている今、ますます聞いて納得できる説教というものへの評価が厳しくなっていると言える。

 

実際自分がここで語るとしたらどう語るだろうか、と考えた。私自身にも語れそうにないと思われた。そして夫ならここをどう語っただろうか、と考えた。

マルコによる福音書は、夫は札幌時代に語っているのだが、その頃はブログも始めていなかったので原稿も残っていない。

しかし若い頃から夫は、マルコによる福音書の1章1節に思い入れが強かった。ブログには、1章1節からの説教が二つ残っている。

 

それで、思った。マルコによる福音書はどこの箇所を読むにしても、1章1節に立ち戻って読むということなのではないか?と。

 

以下に、その説教の一つを抜粋する。

 この一番最初にまとめられ、いちばん短いマルコによる福音書は、そのイエス キリストの福音を伝えていくためにまとめられたものなのです。イエス キリストの十字架と復活をきちんと伝えるためにまとめられました。マタイやルカのように誕生の話もなく、少々物足りないような気がするかもしれません。しかし、イエス キリストを知り、その十字架と復活を理解するために欠かせないことをマルコによる福音書はまとめているのです。

 そして、イエス キリストを知る際に鍵となるのが「神の子」ということなのです。救い主キリストとして神が遣わしてくださったのは、ほかならぬご自身のひとり子であったことをこの福音書は証ししようとしています。天使が遣わされたり、新しい指導者が人の中から立てられたのではなく、わたしたちを救うために神の子が人となってこの世に来てくださった。そしてあろうことかその命まで懸けてくださった。

 神はわたしたちに対して本気でした。本気で愛してくださり、本気で救ってくださいました。神は代わりのないひとり子を遣わしてくださいました。イエスは神の栄光を惜しまず、そしてご自分の命さえも惜しまれませんでした。

 少し砕けた仕方で言うならば、「そんじょそこらのいい知らせとは訳が違う。神の子イエス キリストの福音だ。さあ、その福音を語り始めるからよく聞いてくれ」とこの福音書は最初の一文でもって語っているのです。

 

 今から語り始める、ここから始まる、だから「福音の初め」なのです。ですが、この「初め」というのはこれから始まるというだけでなく、この福音書全体を指しているのです。福音書に書いたこと全部、十字架と復活に至るイエス キリストのすべてによって良い知らせ、福音は始まった。それが今に至るまで続いているんだよ、ということを表しているのです。(https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2018/01/03/173742

 

つまりマルコによる福音書は全体を通して、神の子であるイエス・キリスト、イエスが「神の子」であるということを伝えようとしている、ということなのだ。

だから、「そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」」と記されており、「「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。」と記されているのである。

 

そんなことを考えていると、夫のブログの中に、マタイによる福音書の同じ記事について記された「聖書通読のために」を見つけた。

聖書通読のために75

エスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒瀆している」と思う者がいた。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。その人は起き上がり、家に帰って行った。群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。(マタイによる福音書 9章 1~8節 新共同訳)

 

 一番疑問なのは、5節「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」である。

 断然「あなたの罪は赦される」の方が易しいと思う。それなら自分でも言える。しかしイエスは、この言葉が事実となるため十字架を負い、命を献げることを決意しておられる。当然わたしにはそんな決意はない。

 イエスの言葉は出来事となる。イエスはわたしたちの罪を赦し、救ってくださる。

https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2018/09/14/115900

 

そうなのだ。「あなたの罪は赦される」というのは目に見えないから、言うのは簡単なのだ。

「起きて歩け」というのは、実際「起きて歩かなければ」そうならないというのがはっきり分かってしまうから私たちには難しく思えるのだが、「神の子」にとっては、それは簡単なことなのである。

むしろイエスは、私たちの罪が赦されるために、その命まで懸けてくださったのだ。

 

そう考えると、マルコ福音書に限らず、聖書全体にわたって、私たちの罪を贖うために来てくださった神の子イエス・キリストについてが記されていると言えるのである。

そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。(ルカによる福音書24:25~27)

 

ここまで辿り着いてようやく福音が伝わってくるように思われる。

そうだ!病が癒されることよりも罪が赦されることの方がどんなに大きなことか、と。

ここまで御言葉を聴き取って初めて、夫が病の床にあるということの中に、そういう事態の中に、主が共に居て下さるのだと信じられる。そう思える御言葉を聴きたいのだ。

このままで生きていけると信じられる御言葉を! 

 

私は、癒しは神のご計画のうちにあるものなのだと考える。神がこれは癒すと計画なさっているものは癒されるし、そうでないものは癒されないということがあるのだ、と私は思う。癒されない病の中に人智では計り知れない何らかの意義があるのかもしれないということを心の片隅に置いておきたいと思うのだ。

http://myrtus77.hatenablog.com/entry/20130918/p1 

 

私たちは癒されることの中に神を見ようとする。癒されることの中に、健康であることの中に、成功することの中に。しかし私たちは、罪の世にあって、キリストの十字架を仰ぎ見るのでなければ、神を見出すことは出来ない。

十字架上に留まられたキリストを見るのでなければ、神に出会うことは出来ない、と思う。

 

 

myrtus77.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

葛原妙子64

出現、とは日輪雲を破るごと神の首(かうべ)のあらはるるなり『をがたま』補遺

この短歌については「葛原妙子6」でも書いたのだが、ホセア書6章の言葉について『聴く』に載せた後に、この歌のことが思い出された。

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以下にそれぞれの訳を列記してみよう。

主は曙の光のように必ず現れ(ホセア書6:3 聖書協会共同訳)

主は曙の光のように必ず現れ(新共同訳)

主はあしたの光のように必ず現れいで(口語訳)

主は暁の光のように、確かに現れ(新改訳)

主は暁のように確かに現れ(新改訳2017)

主は暁が必ず訪れるように現れ(フランシスコ会訳)

 

「葛原妙子6」で、私は、この歌について以下のように書いた。

出現、とは日輪雲を破るごと神の首(かうべ)のあらはるるなり『をがたま』補遺

 

この歌が面白いのは、「神の首が現れる如く太陽が雲を破って現れる」と詠っているのではないところだ。さらに、「太陽が雲を破って現れるように神の首が現れる」と詠っているのでもない。「出現とは神の首が現れることである。太陽が雲を破って現れるように」と詠っているのである。凄まじい断定の仕方だと思う。

 

あぁ、そして、神の首が現れる時、闇から光へと変わるのだ。

 

わたしたちの神は来られる。黙してはおられない。(詩篇50:3)

お前はこのようなことをしている。わたしが黙していると思うのか。わたしをお前に似たものと見なすのか。罪状をお前の目の前に並べてわたしはお前を責める。神を忘れる者よ、わきまえよ。さもなくば、わたしはお前を裂く。(詩編50:21〜22)http://myrtus77.hatenablog.com/entry/20120117/p3

 

「葛原妙子6」のここに、ホセア書の御言葉を書き加えるべきだと思った。

 

古い新改訳でホセア書のこの部分を書き出してみよう。

主は暁の光のように、確かに現れ、
大雨のように、私たちのところに来、
後の雨のように、地を潤される。(ホセア書6:3)

 

そうなのだ。神の裁きは罪からの解放を与えるのである。

 

しかし裁きは救いへの招きです。信じられない罪の世で生きるのではなく、神の国で信じて生きなさい、という招きなのです。ですから、裁きは決定してしまった運命ではなく、常に救いへと開かれているのです。(https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2019/08/04/213418

 

神の裁きは、キリストの十字架がそうであるように、そこから救いが現れてきます。(https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2019/07/24/213613

 

 

 

 

 

 

 

占星術師を導く神(追記あり)

 

「ここにいる、ここにいる」と、声ききたし 未知なる道をゆくときに

 

このところタロットカードで占う占星術の動画を色々見ていた。

するとそこに、「神様」とか、「天からの声」とかいったものが共通に現れているということが分かった。

そうだよね、だって2000年前に、神様は占星術の学者達を導いて生まれたばかりのイエスに引き合わせているんだから。

 

だから、占星術の背後に神様がいるのは当然だと思う。

 

そしてその神は、イエス・キリストの神だと私は思う。

 

エスは、ヘロデ王の時代にユダヤベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤベツレヘムです。預言者がこう書いています。

『ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。
お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。(マタイによる福音書2:1~15)

 

 人間は一人ひとり、切り離された個人として生きています。

 でも、自分で思うよりずっと、人間は他者や外界とつながって生きているところがあります。

 パートナーとの出会いや子育てなどを通して「人が変わった」と言われるほどの大変容を遂げる人もいれば、大切な人を失って深く傷つき、長いあいだ立ち直れなくなる人もいます。

 もし私たちが本当に「他者と切り離された、個」として生きているなら、これほどまでに他人の意見を気にし、他人の存在や生死に、人生を一変させられることはないはずです。

 

 自分以外のだれかの存在が、まるで神様のように、自分の人生に「君臨」してしまうこともあります。

 親の意見、先生の意見、パートナーの意見、世間の意見、「心のヒーロー」のようなあこがれの人物の意見。「意見」ではなく「存在」そのものが、心のすべてのようになってしまう場合もあります。

 

 ですが、人から強い影響を受けることや、人の支配下にあると感じることは、現代を生きる私たちにとって、あまりうれしいことではありません。

 「人から支配されている」と認めるのは、屈辱です。

 

(略)

 

 2021年から2023年のなかで、あなたは自分とだれかとの強い結びつきを、さまざまなかたちで自覚することになるでしょう。

(略)

 人からの目に見えない、強い影響の重力から、すうっと抜け出すことができます。

 また、自分自身がだれかを支配していたことに気づいて、その手を離すことができるのかもしれません。

 

 この変化は、あなたを孤独にすることはありません。

 むしろこの変化こそが、これまでの孤独から、あなたを解放してくれるでしょう。

 支配関係が消えた、その向こう側であなたを待っているのは、真に対等な、広やかな、愛の関係です。(石井ゆかり=著『3年の星占い 蟹座』(すみれ書房)より抜粋)

 

深いな〜と思う。これはもはや哲学の域でしょ。否、キリスト教の神髄にもつながるでしょう。三位一体の神の在り方にも。

そう言えば、ガルシア・マルケスの『コレラの時代の愛』を知ったのも石井ゆかりさんの星座占いの本でだった。

 

教会での説教でも、これくらいの深みのある言葉を聴きたいものです。

 

カード占いのリーディングでも深い読みをする方と教科書をなぞっただけのような通り一遍のリーディングの方とがいるように思う。