風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

明日に向けて、今を・・。

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先週の彼岸花を整えて、庭に咲き残った一輪を加えて、

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そこに、丸葉縷紅草を加えて・・。

 

 

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これが、

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明日の朝、

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どうなっているか?

 

あなたは終わりまで自分の道を行け。そして、憩いに入れ。あなたは終わりの日に、あなたの受ける分を得て立つであろう。(ダニエル書12:13)

 

 

 

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秋・・

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長老が昨年植えられた朝顔のこぼれ種が落ちたのか、朝顔が咲き始めて、秋だなぁ、と思う。

 

日曜日の礼拝後、執事さん達が庭の手入れをして、フェンスを突き抜けてお隣に枝を伸ばしたバラも切って下さった。それで、隣から出てフェンスから垂れ下がっていた早乙女花を切って、朝顔に足した。バラが繁茂していると刺が痛くて近寄れなかったのだ。

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翌週はこの早乙女花を小鳥の絵皿に・・。

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それにしても、私より若い方が多くて、ここの執事さん達の馬力は凄い!

 

 

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これは、彼岸花と姫女苑。

 

 

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「そこには草がたくさん生えていた」(ヨハネによる福音書6:10)

聖書:ヨハネによる福音書 6:1〜14(新共同訳)

 イエスが病人たちになさったしるしを見た大勢の群衆が、後を追ってきました。

 福音書は「山に登り」と表現していますが、おそらくは湖近くの小高い場所で、大勢の人たちが周囲に集まることのできる場所に行かれたのでしょう。

 時期は、過越祭をひかえた時期であったと書かれています。過越祭は、復活節と同じ時期ですから、春であったことが分かります。なので10節には「草がたくさん生えていた」と書かれています。

https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2020/09/13/160441

 

私はいつも目を瞑って説教を聞くのだが、この言葉を聞いた後、すぐに聖書を確認した。

「そこには草がたくさん生えていた」ー その情景を実際に目にしたように思える、なんて現実感のある一言が入れられているのだろう、と思った。

それが、五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹させるという奇跡物語の中に入れられた一節なのである。

 

他にも、こういった手法を用いているものに心当たりがある。『コレラの時代の愛』と『罪と罰』である。

コレラの時代の愛』では、五十年以上もの間一人の女性を愛し続けるという実際にはありえないような物語を書くために、まず時代を十九世紀後半から二十世紀前半に設定し、そのために多くの文献を通して時代考証を行ったうえで、ありえない物語をありうる現実の中に据えるというまことに手の込んだ手法を用いている。およそ現実離れした恋物語を縦糸にして、独立後四、五十年たち、没落の一途をたどっているかつての上流階級や新興成金の登場、あるいは文明の利器である電話、電信の普及、川を航行する船会社、当時の医学、とりわけ伝染病に対する措置などが丁寧に書き込まれている。こうした細部が作品の基盤となって、小説世界にどっしりした重みを与えていることは改めて指摘するまでもないだろう。そして、そこにウルビーノ博士、フェルミーナ・ダーサ、フロレンティーノ・アリーサを中心にして、彼らを取り巻く世界と人間を描くことで、あの時代の人間と世界を小説の中に確固としたものとして作り上げているが、その手並みは見事というほかはない。フランスのある批評家は、本を楽しんで読む人をレクトゥール、現実世界以上に本の世界にのめりこんで生きる人をリズールと呼んだが、願わくばこの訳書をリズールとして読んでいただければ、訳者としてこれほどうれしいことはない。(ガルシア・マルケス=作『コレラの時代の愛木村榮一「解説」より)

 

カトコフ宛の手紙では、ラスコーリニコフは、「全人類の利益のためにはしらみのような老婆など殺してもかまわない」という理論だけで殺人を犯すことになっていた。しかし理論だけでラスコーリニコフに殺人を犯させることの無理は、しだいに作家の目にあきらかになっていった。そこでドストエフスキーは、いわば殺人の動機づけのために、主人公のノイローゼ、病気、生活苦の圧迫、母と妹への愛情、さらには迷信まで、さまざまな事情を動員して、理論のあるなしにかかわらず、彼が殺人を犯さざるをえないような状況を作りあげていった。このことによって、『罪と罰』はたんなる観念小説の域を脱し、現実に深く根をおろしたリアリズム小説に高まることになる。

 もっとも、リアリズムという言葉を使ったが、作品舞台についての注解のところでもふれたように、ドストエフスキーのリアリズムは、けっしてそれが自己目的なのではない。それは、想像力によって構築される作品世界を宙に浮いたものとしないための土台、ラスコーリニコフの奇怪な夢とか、スヴィドリガイロフの語る「幽霊」とか、「幻」の形で現れるキリスト(ないしソーニャ)とか、非現実ないし超現実にさえ充たされているように見える作品世界にリアリティを保証するための条件なのである。(岩波文庫罪と罰 下』江川卓「解説」より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」(新共同訳聖書)

 

ヨハネによる福音書1章14節には「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と語られている。

この「言」とは「ロゴス」のことである。「ロゴス」とは「論理」である。

 

ここに先立って11節には、「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」と記されている。

 

「言(ロゴス)」である方が肉体を持ってこの世に来られたのだ。

 

しかし、罪のこの世は「論理」である方を理解せず、十字架にかけて殺したのだ。

 

 

 

 

meromeropy77.hatenablog.com

罪に堕ちたこの世界は、本当に理屈の通じない世界だ、と思う。