風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

3週目に入ったレンテンローズ

教会員が飾ったレンテンローズが、

3週目を迎えた。

だけど、

黄水仙を上手く活かして入れられなかった。

 

花を長持ちさせるためには、

たっぷりの水の中で水切りをして

半日から一晩、置く。

茎が分かれて、その先に蕾をつけているものは切り離す。

葉は、形づくる場合に必要なこともあるが、必要のない葉も極力切り落として、花の先へ水を回すようにする。

 

 

 

頂いた。

 

 

 

 

 

 

 

「神は民を選び出し、救いの御業を成す」 (ゼファニヤ書1:7~12)

「神は民を選び出し、救いの御業を成す」

 2024年3月17(日) 受難節第5主日

聖書箇所:ゼファニヤ書  1章7節~12節

  

1.(「主は幸いをも、災いをもくだされない」と言っている人たちに語る)

 前回6節までで,ゼファニアが伝えたいことというのは,裁きが近づいているということと同時に,「あなた方の信仰というのは決して小さな事柄ではない」、「あなた方が神から離れていく,偶像のもとに行く,神と共に歩まない,それが裁きを招く」、「あなたたちは神によって選ばれた者たち,神の御心に従って生きるという務めを与えられた者たち」、「わたしたちは小さな存在であっても,神を信じて生きるということ」、「神を信じているということ,神に従って生きるということは決して小さなことではない」、「神がそれをお用いになってご自分を世にお示しになり,救いの業を成そうとしておられる」、そのことをゼファニアは厳しい裁きの言葉を通して民に伝えようとしているのです。

 そしてきょうの箇所には12節「心の中で『主は幸いをも、災いをもくだされない』と言っている者を罰する。」という言葉が出てきます。代々続いてきたことだから,その習慣に従って自分たちも色々な捧げ物やその時々の行事もしているけれども,主は幸いをも、災いをもくだされない。つまり,神を信じようが信じまいが人生はそう変わらない。そういう思いが人々の中に広がっていく。そして様々な神々,豊かさや商売繁盛,自分たちの願いに応えてくれる神々がまつられ礼拝されるようになっていく。

 普通に町中で生活している一般の人たちに語ります。時代が変わり,社会が変わっていく中で,どんどんこの世の事柄を受け入れてしまう,そのような人たちに対してゼファニアは語っているのです。

 

2.(主の日,裁きの日の言葉を告げるゼファニア)

 7節の「主なる神の前に沈黙せよ」は,神の前に進み出て,神の言葉を聴くこと。神の御前に進み出てその頭を垂れよ。今,主の日は近づき,主はすでに犠牲を備え,その招いた者を聖別されたからということです。招いた者とは,南ユダ王国を滅ぼすことになる新バビロニア帝国のこと。聖別をするとは,神のものとして取り分けるということです。神が裁きをするために異邦人の国をご自分のものとして聖別をされている。あなた方は神の民だといって,そのことを誇りとしているけど,神と共に生きようとしていない。それに対する神の裁きが近付いている、というのです。

 8~9節「主のいけにえの日が来れば、わたしは、高官たちと王の子らを/また、異邦人の服を着たすべての者を罰する。その日、わたしは敷居を跳び越える者すべてを/主君の家を不法と偽りで満たす者らを罰する。」「異邦人の服を着る」というのは偶像礼拝をするために,その外国の神々に仕える人たちの身なりをすること。「異邦人の服を着」て自分にとって都合のいい,願いを叶えてくれる神々のもとに行く人たち、そのような人たちを罰するというのです。「敷居を飛び越え」という表現が出てきますが,敷居は神殿の境界のことを指します。つまり,神を礼拝して生きることを飛び越えて,神の御心とは全く違うこの世の力に寄り頼み,この世の力をふるうことによって,自分の思い通りにする者たちを罰すると語っているのです。

 10節「その日が来れば、と主は言われる。魚の門からは、助けを求める声が/ミシュネ地区からは、泣き叫ぶ声が/もろもろの丘からは、大きな崩壊の音が起こる。マクテシュ地区の住民よ、泣き叫べ。商人たちはすべて滅ぼされ/銀を量る者は皆、絶たれるからだ。」これはエルサレムバビロニアによって破壊されていく様子。魚の門というのはエルサレムの北の方にある門で,ガリラヤ湖でとれた魚・ヨルダン河で取れた魚の市が開かれる門の名前だそうです。神が与えて下さった様々な恵み,美味しい食べ物,そういう物が売り買いされて活気に満ち溢れていたところから叫び声があがり,平穏で楽しい生活がきょうも明日もずっと続いていくと思っていたのに突如破壊されていく。そして,滅びへ,滅びへと至っていくのです。

 その裁きの時に「わたしはともし火をかざしてエルサレムを捜し/酒のおりの上に凝り固まり、・・」。「酒のおりの上に凝り固まり」とは,ぶどう酒を作る時の表現ですが,これは怠惰であることを表す表現だと言われています。神の御心を求めることに対する怠惰さ,そして心の中で主は幸いをも、災いをもくだされない,わたしたちがどう生きようと神はそんなことに関心を持ってはいない,そう言う人々をわたしは罰する。彼らの財宝は集められ,彼らの家は枯れ果てる,彼らの家は建ててもそれに住むことができない,ぶどう畑を作ってもそのぶどう酒を飲むことができない。神の恵み,そして神の守りによって成り立っていた生活が崩れていってしまう。目に見えない神を信じ,神に従って生きるということが一体何を支えていき,どんな生き方どんな生活を築き上げていったのか,それに気づくことなくその大事なものを失っていく,そしてある時それが一気に崩れていく。日々の生活を食べることを楽しむことを楽しんで,神はいらないと思うようになる。その心に対して,その心を揺さ振り動かすために,ゼファニアには主の日,裁きの日の言葉が与えられたのであります。

 これは主の日が近付いて来たといって脅し怯えさせるためではありません。あなたたちが救い主である神を信じる,そして信じて生きるということは,あなたが思っているほど小さなことではない。神がそれを与え,神がそれを用いて,ご自身の救いの御業を成していかれる。だから,それを手放していったときには滅びへと至る。あなたたちは知らなければならない。それをゼファニアは告げるのです。

 

3.(神はご自身の民を選び出して救いの業をなされる)

 わたしたちも自分が信じているということ,あるいはこうして教会に来ているということがそんなに大きなことではないように思えることがあります。神を信じても信じなくても毎日の生活は続いていく,現にそういう風に生きている人たちが自分の周りには大勢いる。信じることに何の意味があるのだろうか,そう思えてならないときがあるかもしれません。けれど,そうではない。あなたが信じていることは決して小さなことではない。あなたが信仰を持ったのも,あなたが神の民に加えられたのも,神の御心があってのこと,そして神はあなたを選んだこと,あなたを導くことを通して救いの業を成しておられる。神は世界を創造したときの大きな喜びを回復するために,ご自身の民を選び出して救いの業を成しておられるのです。神がわたしたちを導いていてくださることを,小さく思ってはならないのです。

 神はいと小さきところにおいて御業を成されます。しかし,わたしたちはできるなら大きな存在になりたい,人々から認められたいのです。身近な者たちから存在を認められ,評価され感謝されたいのです。自分のやっていることが意味のあるもの,価値のあるもの,皆に喜ばれること評価されることでありたいとわたしたちは願うのです。

 小さい者が軽んじられ意味のないことのように扱われていってしまうのがこの世の有り様です。けれど,神の御業はそうではない。どれほど小さな者であっても神が全てを御手の中に収め導いておられ,神が全てのことを益とされる。神は言われる。わたしがあなたを創った,わたしがあなたを導き,あなたを通して救いの御業をする。あなたが信じて生きることをわたしは喜ぶ。あなたがわたしの言葉を受け止め,わたしの言葉に従って生きることをわたしは喜び,祝福し用いる。と神はわたしたちに語りかけておられるのです。この世の思いにわたしたちが囚われていってしまう時に,そこから目を覚ませとゼファニアはこの強烈な言葉を持ってわたしたちに語りかけています。

 

4.(神の思いにたつ)

 (イザヤ43:4)「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛」すると神は言われます。

 あなたを失うことはあり得ない。わたしはあなたを救い,あなたと共に生きるために独り子を遣わそう,そう神は言われ成してくださいました。わたしたちの価値は自分の目で見て,自分がどれだけのことをしたのかによるのではありません。神がどう思っていてくださるか,神がどのように愛していてくださるのか,神がどのようにわたしたちを用いてくださるか,その神の思いに立たなければわたしたちは罪の中に呑み込まれていってしまいます。この世の大きな力がわたしたちを呑み込んでいってしまうような時代の中で,神に立ち返るように,神と共に生きるようにと語ったのです。

 

祈ります

 主イエスキリストの父なる神様、あなたの御名をほめたたえます。あなたはわたしたちを選び出し、救いの業をなされます。そのためにわたしたちを救い、あなたと共に生きるようにさせてくださいました。感謝いたします。すぐ罪の中に呑みこまれるようなわたしたちです。しかし、常にあなたの思いに立つわたしたちとさせてください。主イエスキリストの御名によって祈ります。

 

 

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ツイッターでお送りする本の処分の模様

蟹座のところに栞を挟んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さくら

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「この庭は・・」(休業中のアロマセラピスト良香さんの日常№5)

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こちらは牧師館の外から見た

桜の

木と花。

 

引っ越し先のリビングから見えるのは向かいのマンションのベランダの洗濯物なので、眺めはあまり良くない。庭の桜は今年で見納め。

 

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教会の近くのマンションの沈丁花の生け垣。


こんな風に花を咲かせるためには、

剪定時期をきちんと見計らう必要があるだろう。プロの業かな?



 

 

 

 

「わたしたちを連れ返してください」(詩編80:2~8)

 「わたしたちを連れ返してください」 

 

2024年3月10(日) 受難節第4主日

聖書箇所:詩編  80編2節~8節

 

 「わたしたちを連れ帰してださい」

 東日本大震災から13年がたちます。この説教は○○牧師が東日本大震災の後でなされた説教を基にしています。そのことを憶えつつ説教代読をしたいと思います。

 

 聖書朗読では新共同訳をお読みしましたが、口語訳聖書80編3節では「神よ、われらをもとに返し、み顔の光を照してください。そうすればわれらは救をえるでしょう。」

同じく口語訳7節では「万軍の神よ、われらをもとに返し、われらの救われるため、み顔の光を照してください。」と記されています。

 

 この詩編80編は北イスラエル王国が滅んだ後の、その苦しみの中で歌われた詩編だと考えられています。

 イスラエル王国として建てられた国は、第三代の王ソロモンの死後、北と南の二つに分裂をしました。北イスラエル王国と南ユダ王国です。そして北イスラエル王国は紀元前八世紀の終わりにアッシリア帝国によって滅ぼされ、南ユダ王国は紀元前六世紀の初めに新バビロニア帝国によって滅ぼされていったのです。その北イスラエル王国が滅んだ後に、神に救いを求めて祈られた祈りがこの詩編80編だと考えられています。

 

 自分達の罪ゆえにさばかれたことを詩人は承知しております。それ故「いつまで怒りの煙をはき続けられるのですか。あなたは涙のパンをわたしたちに食べさせ なお、三倍の涙を飲ませられます。わたしたちは近隣の民のいさかいの的とされ 敵はそれを嘲笑います。」(5b節~7節)と訴えます。

 アッシリアによって国が滅ぼされ、イスラエルの民はそこに住むことが適わなくなりました。アッシリアが、滅ぼした北イスラエル王国に対してどのようにしたかと言いますと、反乱が起きないように移住政策をとったのです。北イスラエルの国民を別の土地に連れて行きました。

 

 今日も難民と呼ばれる人たちがいます。各地で民族紛争が起こり、侵略戦争が起こり、自分の住んでいたところが戦場となって、そこで暮らすことができなくなり、隣国との境に難民キャンプをはって生活している人々もいます。

 そしてそれは私達がどこか遠くのこととしてニュースで聞くというだけでなく、故郷を失うという意味では、私達は原発の事故によってもはや住み慣れたところに帰ることが出来ないという人々がいること、又今年初めの震災によっても多く人々が亡くなり、多くの人々がいまだに避難生活を送っている、ということを身近に知っているのです。色々な形で住み慣れたところを奪われ失ってしまう、そういう人々がどの時代にもいるということを私達は知っているのです。

 

 「わたしたちを連れ帰してください」という切なる願いがあります。そこには家族と共に生きる、長年馴染んだ隣近所と一緒に生きる落ち着いた生活があったのです。けれどもそれが失われてしまった。自らの罪の結果ではありますけれども、しかし人は、自分の行っている罪がどれほど大きな報いとなって返ってくるのか、それを知らずに生きています。そのことが露わになって、そしてそれが自分自身に降りかかって初めて自分の罪が、自分達の民の罪がどれほどのものであったのかを知るのです。

 罪の出来事は周囲の人を巻き込んでいきます。「自分の罪は自分が負う」などとは誰にも言うことが出来ません。必ずやそれは自分と共に居る者達を巻き込んでいくのです。

 神の民は神の前に立って、人の罪を、そして罪がもたらす滅びの悲しみを知っていなくてはなりません。

 「神よ、わたしたちを連れ帰してください」というのは、古代のイスラエルの民の祈りではなく、今、この原発の事故が起こり、故郷を失い、流浪の民となった多くの人々が生まれた、この現代の日本で、私達神の民が祈らなければならない祈りではないのでしょうか。収束するのに何千年、何万年という単位の年数がかかると言われています。どうやったら元に返るのか、人の力ではもうとても予想も想像もつかないのです。無から世界を創り、私達の罪のためにご自身の御子の命さえかけてくださる、その神がしてくださるのでなければ私達は本来あるべき元へ返ることは出来ません。

 

 原発の事故だけでなく、神が創られたエデンの園に住んでいた人間がその罪ゆえにそこをおわれてしまった。よく「失楽園」という、「楽園を失う」という言葉で言われますけれど、そこを去らねばならなかった。けれど神は、もう一度私達と共に生きるために、神と共に私達が「良かった」と喜ぶことが出来るようになるために御業をなし続けていてくださるお方なのです。だから私達は主にあって望みを抱きつつ、この祈りを祈るのではないでしょうか。

 『神よ、われらを連れ帰し、み顔の光を照らしてください。主よ、どうか御国を来たらせてください。そうすれば私達はあなたの救いにあずかることが出来ます。』と祈るのではないでしょうか。

 

祈ります。

 主よ、どうかあなたのみ顔を私達に向けてください。光を照らしてください。そうすれば罪の闇に閉ざされたこの世にあっても私達は御国への道を見ることが出来ます。

 神よ、あなただけが私達を元へ、あなたが備えてくださった、あなたが良かったと言って下さった、あの祝福の元に返すことがお出来になります。

 主よ、わたしたちを連れ帰してください。み顔の光を照らしてください。そうすれば私達は救いを得ることが出来ます。

  アーメン。

 

 

この説教の後に選ばれた讃美歌は、「天の力に癒し得ぬかなしみは地にあらじ」と繰り返される讃美歌399番。

 

 

 



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