風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

最後の『聴く』(2024年1月号)

 

この最後のページに載せた八木重吉の詩を見て、娘は、比喩だということは分かるけど、これだと鍛冶屋さんの家(知人に鍛冶職人がいるので)か、火事しか思い浮かばない、と言った(笑)。

 

 

愛には色々な形があると思うが、私がこの詩から思い浮かべるのは、薪を焚べ、温かい料理を用意して家族を養い、お客様をもてなしている情景。

 

 

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夫は良く「型に入って型を出る」ということを言っていたが、愛するというのも形につながるもののように思える。

 

 

今日は洗足の木曜日。夫は毎年、この木曜日に受難週祈り会をしていた。

 

 

 

水曜日、

正面のレンテンローズを

椿に替えて・・。

 

 

 

 

 

 

 

4週目を迎えたレンテンローズ

4週目を迎えたレンテンローズは、赤い方を桜と一緒に飾り、

白いのは、

黄水仙と飾った。

蕾のを一つ入れ忘れていたので、

中央に足して・・。

 

 

水曜の玄関は、

正面をレンテンローズに替えて、

椿を

一輪。



 



 

 

 

「人生の分水嶺」(ルカによる福音書16:19~31)

昨日の礼拝は、この3年ずっと支えてきて下さった引退教職の先生によって守られた。

以下は、お説教原稿より全文書き起こし。

「人生の分水嶺」(ルカによる福音書16:19~31)

 取り上げましたのは、主イエスが語られたたとえ話である。主イエスは、たとえ話を多く用いられました。その目的は、三つあると言われる。①わかりやすくする。②考えさせる。「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:9)③決断を求める。有名な数学者にしてキリスト教思想家であるパスカルは、信仰は賭けだと言った。もし今、ここに求道中の方がいらっしゃったら申し上げたい。やがて、決断しなければならないときが来るということである。そのことを考えながら求道の生活をしていただきたい。

 さて、これからお話しするたとえには、金持ちとラザロという貧乏人とが登場する。二人はそれぞれの死を境に逆転してしまった。一方は天国に他方は地獄に行ったという話である。主イエスは、天の国とか神の国について多く語られた。「天の国は次のようにたとえられる」とか「神の国は次のようなものである」と説教された。ところが、地獄について正面切って話されることはなかった。この点、仏教などとは違っているのではないか。お寺などに行くと地獄絵図とかあって、子どもにでも分かるようにその恐ろしさを教えている。それに比べると聖書、特に主イエスの説教では極端に少ない。そのためだろうか、キリスト教には地獄というものがあるのかと質問されることがある。このような質問がなされるほど地獄について語られることが少ない。これには理由がある。キリスト教の信仰は地獄に行くのがいやだからキリストを信じるとか、キリストに従うとかいう信仰ではないからである。宗教改革者マルチン・ルターは、「キリストがご一緒なら地獄に行ってもよい」と言った。

 ところが、この譬えでは、はっきりと地獄について語っている。地獄があることを教えている。もしキリスト教会が、地獄がないかのように福音を語るとしたら、その福音は偽物である。主イエスは言っておられる。「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。この方を恐れなさい」(ルカ12:5)と。地獄に定める権威のない者から罪を赦すと言われても、そのような赦しには何の意味も力もない。

 

Ⅰ 金持ちであること

 このたとえそのものを見てみよう。「ある金持ちがいた」という書き出しである。つづいてどのくらいの金持ちであったか説明されている。「紫の衣」を普段着としていた。紫という色は、英語で“royal perple”と言うように王侯、貴族の着物である。「柔らかい麻布」を着ていた。下着である。「織られた空気」と言われて肌触りは抜群であった。しかし、彼について語りえるのはこれだけである。彼の人生のすべてをこの「金持ちであった」で言い尽くされているという意味である。そのような彼にどんな人にも来る死が襲った。神から最も離れた世界であり、神に見捨てられたところである地獄に投げ込まれた。23節によると地獄から天国が見えていると言う。これは苦しみを一層大きくする。すべての人が例外なく地獄に行くのであれば耐えやすいかもしれない。しかしそうではない。惨めさがいっそう倍加する。

 金持ちは、ここで初めて神というご存在が自分の命に絶大な権威を持っているかを知った。それまではそのようなことを一度も考えたことはなかった。このたとえは、金持ちは地獄に行くと言っているのではない。お金を神としてしまって、真の神を自分の生活領域に入れていなかったことが、決定的であった。確かに冠婚葬祭の時には神を意識したかもしれない。しかし、それも終わってしまえばそれまでと何ら変わらず、神と無縁の生活を続ける。それが重大な失敗であったことを金持ちは地獄で気がついたのである。遅かった。

 

Ⅱ 貧乏人ラザロ

 一方、貧乏人ラザロはどうであったか。20〜21節でこう紹介されている。この人についても、その生涯を総括すれば重い病気を持った貧しい人としての一生であったと。ところが、主イエスはこの人は「ラザロ」という名があったと言っておられる。主イエスの語られたたとえは多いが、登場人物に名をつけられることは他に一度もない。ということは、この貧しい人がどういう人であったかを説明する大切な点であるということである。名は体を表すというがラザロにおいても当てはまる。ラザロとは「神はわが助け」という意味だからである。彼は、神のみに頼り、神に慰めを見出して極貧のなかを生きて来た人であった。日々の生活の中でしっかりと神を見上げ、生きる力として来た。かけがえのない方として信じて生きた人であった。

 金持ちは、神を自分の死活の中から完全に放り出して平気であった。しかし、地獄に来て信じていなかったことを見なければならなかった。他方ラザロは、信じていたことをその目でみることになった。彼は、生前から事実上天の国に属していたからである。この事実が決定的なことであった。

 今日のこの説教の題を「人生の分水嶺」としたのはこの点をお話ししたかったからである。日本列島には、北海道の北の端、宗谷地方から鹿児島の南端、大隅半島に至るまで中央分水嶺が走っている。分水嶺に降った雨水は、ほんの少し、数センチの違いで日本海に行くか太平洋に行くかが決まる。今、わたしたちが歩みつつある人生は、2000年余り前に神の独り子イエス・キリストがお出でになって以来、分水嶺の上を歩いている人生である。主イエスが、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われて以来、わたしたちは神に直面している時を生きているのである。しかし、今、分水嶺の上を歩んでいることは分かりづらい。分水嶺にも分かりやすいのと分かりづらいのとがある。日本アルプス分水嶺は、はっきりしている。分かりづらいのは、平地を走っている分水嶺である。兵庫県の中央にある。海抜95メートルの分水嶺である。小さな川の土手である。実際にその上を歩いてみた。右と左で大きな違いをもたらすとはとうてい思えない。しかし、やがて死を迎えて知る。これを恐れなければならない。

 

Ⅲ 聖書によって

 地獄に来て初めて自分が間違っていたことに気づいた金持ちは、兄弟だけは自分と同じ過ちを犯してほしくないと思い、ラザロを地上に遣わしてほしいと願った。31節にそれに対する答が記されている。聖書に聴く以外に人生の分水嶺に気づかないし、分水嶺がもたらす大きな違いを知ることはないと言われる。もし、ここに求道中の方がいらっしゃるなら申し上げたい。聖書に耳を傾ける生活を大切にしていただきたい。そして決断の時を逃さないでいただきたい。

 

夫が倒れてからのこの3年、私にとっては大変な年月だったが、このように豊かにお説教をお聴きすることができ、幸いな年月でもありました。

先生ご夫妻の上に主の御祝福を祈りつつ、感謝してお説教を掲載させて頂きました。

 

 

さくらは、

一気にひらく。




 

 

 

 

 

 

商店街の引札屋で買ってきた桜を・・。

 

 

 

東海桜という桜を満開の一枝と蕾の一枝を一本ずつ買って来て、牧師館の咲き残った桜を足そうか、沈丁花を足そうか、椿を足そうかと考えていたが、

買って来た桜だけで、
十分じゃないかと思ったのだが、

 

まだレントの期間なので、4週目を迎えたレンテンローズの赤いのを

足元に入れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

型に入って型を出る(太極拳とキリスト教の講演レジメから)

引っ越し荷物の整理をしていると、他の教会でした講演のレジメが出て来た。

「いのちを巡る考察 ー太極拳キリスト教ー 」。

そこに、太極拳を始めた理由というのを書いていた。

「説教をする中で、愛は机上の空論かと悩んだ」、と。

そして、教会の会議や牧師の集まり、自分自身にも愛が感じられない、と記してあった。

 

愛は説教の言葉の中だけのものなのだろうか。

修養だけでなく、修行が必要ではないかと考える。

寺に参禅してみようかと考えたが、教会員が躓くのではないかとためらわれた。

修練の中に「立禅」がある太極拳を習ってみようと思うに至った。

 

(略)

 

プロテスタント教会は、聖書主義を標榜するあまり行(ぎょう)を失ってしまった。

信仰は知性・理性に偏り、身体性を失った。

太極拳でなくともよいと思うが、キリスト者には修行するものが必要。

 

(略)

 

神と関係なかったものを神とのつながりにおいて新たなものとしていく。

諸民族の伝統が神と関わるもの、神を証しするものとして新しくなる。

日本、東洋の文化も。

   すでに・・・ お茶

西洋化するのが、キリスト教の目指すところではない。

創造主であり、救済主である神と出会い、神との関係・つながりを回復することが目的。

 

このレジメの参考文献には、笹森建美『武士道とキリスト教高橋敏夫『茶の湯の心で聖書を読めば』が上げられていた。

茶の湯の心で聖書を読めば』は、最近、古書店に送った気がする。

 

 

この前の礼拝最後の祝福は、コリントの信徒への手紙ⅡをⅠと間違えたようなのだが・・。

イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。(コリントの信徒への手紙二13:13)

         ↓

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(コリントの信徒への手紙一13:13)

 

聖書でもこのように言われていて、キリスト教の本質は「愛」だと思われるが、教会の中で愛についての言及があまりなされていない気がする。

「愛しなさい」という号令はかけられるが、愛せなさの告白は皆無ではないか?と。

 

夫は良く「型に入って型を出る」ということを言っていたが、愛するというのも形につながるもののように思える。

 

私なんかはあまり形というものを大事に考えない方で、料理なんかも料理本のレシピ通りに作った試しがないし、若い頃は生け花を習っていたが、稽古を休んでばかりで型が身についていない。

しかし、やはり型というのは大事だろうと思う。

習っていた生け花では、「天・地・人」という3本の枝を基本にして活けるようだったが、「新風体」という新しい型も生み出されていた。これ等は、型に入って型を出たものということが言えるのではないだろうか?

 

 

しばらく前に来られた牧師は、聖餐式で、パンを長老に渡し終えた後、会衆に半ば背を向けて「パンにもれた方はおられませんか」と問うていた。半ば背を向けて尋ねて、そのまま背を向けて講壇に戻れば、配餐にもれた人の確認はできないだろう。これは、所作が合理的に洗練された型を土台に持っていないということだ。

 

夫は、パンを分かつ時、「取って食べなさい」と言っていた。皆さんそのように言っておられるのだと思い込んでいたが、夫が倒れた後に来て下さった先生方はほとんどそのように仰らなかった。私の恩師はどうだったろう?覚えていない。

 

 

ところが、お一人だけ、高齢の引退教師が来て下さった時、同じように言われたのだった。そう言えば、この方は、夫が牧師になったばかりの頃に礼拝にお呼びしたことのある先生だった。夫はその時にこの先生の言葉を聞いて自分も言うようになったのか?と思った。「取って食べなさい」と。これは元々の型に加えたということか?

この先生の聖餐後の讃美歌も、若い頃の夫が良く聖餐後の讃美歌に選んでいたものだった。

 

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讃美歌502番 ー2

すくいのめぐみ 告ぐるわれは 楽しみあふれ歌とぞなる。

滅びをいでし この喜び、あまねく人に えさせまほし。

世にある限り、きみのさかえと 慈しみとを語り伝えん。

 

 

 

http://ginouken.com/CrossPoint/CrossPoint-9.pdf