風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

大好きな米津玄師にちょっとイチャモン(『カナリヤ』)

『カナリヤ』のMVがユーチューブに上がってきたようだ。やっぱり本人が歌ってるのが一番いいよね。でも、映像はちょっと気に入らないところがあるのでリンクしないことにする。

 

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米津玄師アルバム『STRAY SHEEP』より「カナリヤ」

この歌の歌詞の中で最も注目したのが、以下。

 

いいよ あなたとなら いいよ
もしも最後に何もなくても
いいよ いいよ いいよ

 

「最後に何もなくても」というのが、本当に、いい!

 

 

そしてこれに続く、

いいよ あなただから いいよ
誰も二人のことを見つけないとしても
あなただから いいよ
歩いていこう 最後まで

 

この「誰も二人のことを見つけないとしても」のところで私は、ガルシアマルケスコレラの時代の愛を思い浮かべた。そして二人のことを見続けている人がきっといる、と思った。

 

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しかし、ちょっと気に入らないのが、ここの部分、

あなたも わたしも 変わってしまうでしょう
時には諍い 傷つけ合うでしょう
見失うそのたびに恋をして
確かめ合いたい

「見失うそのたびに恋をして」、ちょっと長らく生きてきたおばさんには、それはあり得ないと思うよ。

見失うそのたびに恋をするというのは、どうしたら出来るのでしょうか?

見失うそのたびに恋心というものは壊れていく一方だと、私は、思います(笑)。

あぁ、でも有名な歌があったなぁ、「恋は不思議ね 消えたばずの灰の中から何故に燃える」とかって(古)。私の住んでる世界が違ってたのか? 米津様、参りました!

 

 

 

わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます。(詩篇139:9~10)

 

 

 

「カナリヤ」の代わりに、大好きな「Flamingo」のMVをリンクさせて頂く。

youtu.beこれは本当に最高です。動きとか、表情とか、ストーリー性とか、映像としての芸術性が高い!

 

 

 

 

 

『聴く』10月、11月号

11月は逝去者記念の月として、今年亡くなられた方の葬儀の辞を掲載した。

 

この方はご自分で葬儀のための聖書箇所を選んでおられた。

主は新しい歌をわたしの口に授け、われらの神にささげるさんびの歌をわたしの口に授けられた。多くの人はこれを見て恐れ、かつ主に信頼するであろう。(詩篇40:3)

歌のお好きな方であった。

 

この御言葉に応答して、牧師が選んだ聖書箇所は、以下、

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讃美歌も選んで逝かれた。

この方の葬儀は、ご遺族が感染症のことを考慮され、御身内だけの葬儀となった。

その後2ヶ月近く、感染症の流行のため礼拝は休止となった。

 

 

 

10月号の『聴く』には、1ページから4ページにわたって、「バビロンの流れのほとりに座りシオンを思って、わたしたちは泣いた」(詩編137:1〜9)の説教抜粋を載せた。

 

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全文は以下から、

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岩尾淳子=文(砂子屋書房『一首鑑賞 日々のクオリア』)より抜粋リンク掲載

病苦より逃れんとしてキリストに触れたりし指どこまで伸びる

             松村由利子 『光のアラベスク』 砂子屋書房・2019年

 

(略)

 

理由のない苦しみには耐えられない。罪と許しとの相関のなかに苦しみを理由づけることで救済が与えられる。作者は、そういう人類の苦しみにイエスのように寄り添っていこうとしているのだろうか。あるいは、その不可能性を抱えようとしているのだろうか。どちらにしても屈曲した情熱をはらんだ思想がここに捻じ込まれている。

ところで、聖書を読んでいると分からないことがたくさんある。 イエスは自らが犠牲になって、人々を罪から救い、永遠のいのちを与えたという。それは喜びではあろうけど、永遠のいのちって何だろうか。安らぎに到るまでに、イエスの赦しを得るまでに、もっと歩かねばならない。しかし思考はいつでも間に合わない。(岩尾淳子=文『一首鑑賞 日々のクオリア』より)

 

この、「理由のない苦しみには耐えられない。罪と許しとの相関のなかに苦しみを理由づけることで救済が与えられる」という部分を拝見して、ドストエフスキーが「作家の日記」で書いているという次の文章を思い浮かべた。

 

キリストの教えどおり、人間を自分自身のように愛することは不可能である。地上の人性の掟がこれをしばり、自我が邪魔をする・・・人間はこの地上で、自身の本性に反した理想(自他への愛を融合させたキリスト)を追求している。そして、この理想追求の掟を守れないとき、つまり、愛によって自身の自我を人々のために、他者(私とマーシャ)のために犠牲に供しえないとき、人間は苦悩を感じ、この状態を罪と名づける。そこで人間はたえず苦悩を感じていなければならず、その苦悩が、掟の守られた天上のよろこび、すなわち犠牲と釣合うのである。ここにこそ地上的な均衡がある。でなければ、この地上は無意味になるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

山崎行太郎=著『小林秀雄とベルグソン』(電子書籍)、読み終えて・・

山崎行太郎=著『小林秀雄ベルクソンは次の言葉から始まる。

 矛盾にぶつからない思考が合理的なのではない。矛盾にぶつかることを恐れない思考が合理的なのである。つまり矛盾に直面しない思考とは、中途半端な思考であり、いわば矛盾することを恐れて、問題を回避した思考なのだ。しかし人はしばしば、矛盾に直面しない思考が合理的思考であり、矛盾をはらむ思考は非合理的思考である、と思いこんでいる。『小林秀雄ベルグソン』p8

この言葉には力がある。解決不能な現実の問題に晒されて立ち往生している者に前進をうながす力を持っている。

この数年、二人の病人を抱えて栄養学の深い森を彷徨ってきた私を支えてくれた言葉だ。

 

 

 

若い頃、自分には詩は書けないと思った。にもかかわらず、分かりやすい簡単な、それでいて胸に沁み入る「詩」を必要としていた。

 

「詩」というものに出会ったのはいつの頃だったろうか?

小学生の頃だったとはっきり思い起こすことができる。

カレンダーの風景写真に添えられていた詩。

八木重吉の詩だ、エミリー・ディキンソンの詩だ、と。

 

  木
          八木重吉
はっきりと
もう秋だなとおもうころは
色色なものが好きになってくる
あかるい日なぞ
大きな木のそばへ行っていたいきがする

 

しかし、高校の頃いつも胸に抱いていた重吉の「神様あなたに会いたくなった」とは、どこで出会ったのだろう?

私の持っている重吉の詩集は、二冊とも短大時代に人から頂いたものだ。それ以前に知っていた詩は風景写真に添えられていたもの以外、どこで出会ったのか思い出せない。

 

  

       再会

 

   誰もいない
   校庭をめぐって
   松の下にきたら
   秋がひっそりと立っていた
   私は黙って手をのばし
   秋も黙って手をのばし
   まばたきもせずに見つめ合った

 

 

 

        秋

 

   秋は透明な
   薄いむらさきだ
   むらさきの秋は
   騒がしいものを寄せつけない
   体の透きとおる人をだけ
   そおっと淋しくなでるのだ
   むらさきの中では
   淋しがりやだが
   強い死なない人だけが
   首をたれて
   落葉をハラハラと浴びるのだ

 

                矢沢宰『光る砂漠』より

  

 

山崎行太郎=著『小林秀雄ベルクソン、古い懐かしい友人に再会したように、子どもが泣きながら眠るように、読み終えて眠った。

 

  

 

 

 

 

 

 

 

赤星進=著『心の病気と福音(上)』と、「エア聖餐」

赤星進=著『心の病気と福音(上)』に、「自我の業としての宗教心的信仰」「私たちの中における神の業としての福音的信仰」ということが書かれていて、そこに、分裂病の場合には、(略)幻想的な信仰になっていく」(p169)と記されている。

 

この本は、夫が神学生時代に先輩牧師に勧められて購入して持っていたもので、私が読んで、その後大事に持っているものなのだが、勧めて下さった牧師と数年前にこの本の話をする機会があった。

その牧師は、「あの本にも、どうしたら良いかということは書いてないよね」と言われたのだった。

そうなのだ。最後のまとめ的な部分でも、「こういう分裂病躁うつ病の人々への伝道において、私たちが普通の健康な人々に対するのと同じように自我の業としての信仰から導いて行こうとしても、そういう導き方はこの病気の人々には通用しないということです。と言いますのは、そういう信仰の在り方、そういう伝道の在り方であるならばその人たちをますます病的な信仰、病的な宗教生活に追い込んでいくことになるからです」ということは語られているのだが、それじゃあ、どうすれば良いかということは語られていない。

そしてこれまで、「幻想的な信仰」と言われていることも、具体的にイメージできないでいた。

しかし最近、私などが良く言う「神様の思し召しだった」というような捉え方が病的になっていくと、「世界を救いなさいという神の声が聞こえる」というようなところに繋がってくのではないかと思ったのだった。神の御心などそう簡単には分かるはずもないのだが・・。

 

さて、教会の聖餐は依然として「エア聖餐」が続いている。

教会員の中にはもうそろそろ再開したいと思っておられる方もいるようだが、私は反対である。もちろん私は小会メンバーではないので議決権は持たないのだが、ここに反対意見は書いておこうと思う。

感染症流行の中で、聖餐を休止している教会の教会員が聖餐を求めて時折こちらに来られる。「うちでもやっていません」と言うとそのまま帰られる。そういう方がこのところ聖餐がなくても礼拝に参加して行かれるようになった。

そういった方のためにも、安易に聖餐を再開するのではなく、忍耐強く「エア聖餐」を続けるべきだと私は考える。

 

「聖餐に与れば罪赦される」という考えは、そこに固執し病的になれば、その信仰は魔術的な信仰へと行き着くと思われる。

本物の聖餐は受けられずとも、「エア聖餐」を受けながら、神の恵みを豊かに受け取る体験を重ねたいと思うのである。

 

そこで主はモーセに言われた。「今、あなたがたのためにパンを天から降らせる。

     ・

こうしてイスラエルの人々は、四十年の間、人の住む地に入るまでマナを食べた。(出エジプト記16:4,35)

 


一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してそれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これは私の体である。」また、杯を取り、感謝を献げて彼らに与えられた。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流される、私の契約の血である。よく言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」(マルコによる福音書14:22~25)

  

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ナデシコを桜のひこばえが支える

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先週の日曜日に教会員の方が持ってこられたナデシコがまだ咲き残っていたので、水曜日に桜の蘖と一緒に入れ直した。

 

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ナデシコを、

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桜のひこばえが、

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支えるようにして、入れてみた。

 

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手前の赤いのが開ききっていたら、正面から見ても素敵だっただろうに、残念!

 

 

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神の愛に偽善はない!(ローマの信徒への手紙 12:9~10からの説教)

ローマの信徒への手紙 12:9~10(新共同訳)からの説教抜粋

 

 9節「愛には偽りがあってはなりません。」

 実は、原文は「愛」という単語と「偽善ではない」という一つの単語との二つの単語だけで、動詞はありません。ですから元の文章には「あってはならない」という禁止の意味はありません。ですので、わたしはそのまま「愛は偽善ではありません」と理解した方がいいのではないかと思います。

 「偽りがあってはなりません」と言われると、「わたしの愛は偽りだらけだ」とか「偽りを減らすように努力しなくては」とか、聖書が言おうとしていることとは別の方向に思いが反応してしまうのではないかと思います。ここでは、あなたの愛について反省しなさいとか、努力しなさいということを言おうとしているのではありません。ですから「愛は偽善ではありません」と理解した方がいいのではないかと思います。

 偽善という言葉は、仮面をかぶるという意味です。だから、愛していないのに、愛しているふりをすることがここでの偽善です。愛は偽善ではないので、悪を憎み、善から離れず、兄弟愛の内に、互いを愛し、敬意を持って互いに相手を立てていきます。

 何より神が一人ひとりを愛しておられ、キリストは命まで献げてくださいました。その主の御心が成るように、与えられた賜物を愛をもって用い仕える、それが愛によって共に生きるということです。

 

 当たり前のように「愛」という言葉を使ってきました。当然「愛とは何ですか」という問いがあるだろうと思います。聖書には「神は愛です」(1ヨハネ 4:16)とあります。聖書に記された神の御言葉と御業に触れていくとき、わたしたちは神の愛に気づかされていきます。

 わたしは聖書を読むと、神の愛とは「共に生きようとする思い」なのだと思います。罪のため神と共に歩めなくなった罪人のために、救いの御業をなし、ついにはイエス キリストを与えてくださり、神と共に生きられるようにしてくださる、この「共に生きようとする思い」こそが神の愛なのだと思います。

 

 実は、わたしたちが今当たり前のように使っている「愛」という言葉が今のように使われるようになったのは、明治になってからだと言われています。昭和5年に発行された『日本伝道めぐみのあと』(ト部幾太郎 編集)に収められている山本秀煌(やまもと ひでてる)「伝道の草分」という文章にはこう記されています。「今でこそ愛といふ言葉は崇高な立派な言葉であるが、それも昔はさうでなく、一種の低い賤しい意味に用ゐられたものである。尊い意味で云へば愛は上級のものが下級のものを憐れむといふ義で、君が臣を愛し、親が子を愛すと云ったが、臣から君へ対しては忠、子から親に対しては孝、弟から兄に対しては悌、上長に対しては敬で、愛といふ言葉は用ゐなかった。・・又低級の意味ではそれは専ら男女間の神聖ならぬ卑しい関係を指示したものだ。さういふ次第から私共は愛といふ言葉を用ゐることに躊躇した。」

 すんなりと「愛」という言葉が使われたのではないことが分かります。

 では明治以前、キリシタン時代には「愛」はどう理解されていたのかといいますと、「御大切(ごたいせつ)」だったそうです。愛とは、相手を大切にすることだという訳です。これも大事な理解であろうと思います。

 ではどのようにして「愛」という言葉が積極的なよい意味で用いられるようになったのでしょうか。これは中村正直が訳した西国立志編という本で、キリスト教の精神を要約した言葉として敬天愛人 天を敬い、人を愛する」という言葉を使ったのが大きな要因の一つではないかと思います。中村正直は、貴族院議員も務めた人物で、明治天皇にも洗礼を受けるように勧めた人だそうです。そして中村正直西郷隆盛の友人でした。西郷隆盛が残した『南洲遺訓』(彼は号として南洲と名乗っていた)にも敬天愛人という言葉が出てきます。実は彼、主君 島津斉彬から漢文の聖書を贈られており、聖書を教えていたこともあるそうです。

 こういうことがあって、明治政府の人間には敬天愛人という言葉が知られていたのだろうと思います。先程引用した「伝道の草分」には「恐らくは明治五年制定の三条の規則なるものの第一条に、敬神、愛国と有るのが、愛の字の用法の変りはじめではないかと思ふ」とあります。

 少々説明が長くなりましたが、わたしたちが今使っている「愛」という言葉の基には、聖書があり、神の愛があることを心に留めておいて頂ければと思います。

 

 聖書に戻ります。

 神の愛には偽善はありません。神は本気でわたしたち罪人を愛しておられます。独り子イエス キリストを遣わすほどに愛しておられます。

 ですから、その神の愛を受け、救いに入れられ、神と共に生きるようになったわたしたちは、悪を憎み、隣人に悪を行いません。悪とは、神の御心に反すること。神が望んでおられないことです。

 それに対し「善から離れず」の「善」は、神の御心です。「離れず」は、「のり付けをする」という言葉です。のり付けするということは、本来はくっついてはいないということです。罪人は神の御心とくっついてはいないのです。では何によって神の御心にのり付けされるのでしょうか。それは聖霊とキリストによってです。聖霊によってキリストを知り、キリストと結び合わされて、神の御心を知り、神の愛を知り、善悪を知るのです。

 

 そしてキリストに結ばれたわたしたちには、神の家族、主にある兄弟姉妹として兄弟愛の絆が与えられました。神がご自身の民として選ばれたこと、キリストがこの人のためにも十字架に付かれたことに敬意を払い、その人に与えられた賜物が神の栄光のために用いられるために互いに仕えるのです。

 「優れた者と思いなさい」という言葉は、「先に導く、先導する」という言葉です。おそらく翻訳者は「先導する」ということで「露払い」をイメージしたのでしょう。露払いは「貴い人の先に立って道を開くこと」ですから「相手を優れた者と思う」という訳になったのだろうかと推察します。ここでは、賜物が用いられるときに、先に状況を整え、神の栄光が現されるように導くことを表しています。ですから、出会いを備えられた神の導きを覚えて、互いに敬意を払い、お互いが神の栄光のために用いられるように、仕えていくのです。

 

 ですから、ここで言われている「愛」は、神の愛であり、神の愛に満たされ導かれていく愛です。だから愛は第一に神から受けるのです。愛は愛されることによって知るのです。わたしたちは愛である神にかたどって造られました。だからわたしたちには、神の愛が必要なのです。神に愛されることが必要なのです。わたしたちは神の愛を受け、神を喜ぶために礼拝へと招かれています。礼拝において神に出会い、神との愛の交わりで満たされていくために招かれているのです。

 

 神の愛には偽善はありません。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネ 4:10)

 神の愛に満たされたなら、神の愛がわたしたちを導きます。(略)神に従い行くすべてがイエス キリストの愛の内にあります。神は、わたしたちの生きるすべてをイエス キリストを通して与えてくださっています。

 

 神の愛には偽善はありません。信じて大丈夫です。ご覧なさい。この方です。イエス キリストです。この方に出会うとき、神の愛が分かります。そしていつもキリストに出会えるように、わたしたちは礼拝に招かれているのです。

 

 

全文は以下から、

fruktoj-jahurto.hatenablog.com