風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

マルコによる福音書3章1節〜6節

エスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。(マルコによる福音書3:1~6)

 

この前のところ、2章23節から28節では、次のように記されている。

 

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(マルコ2:23~28)

 

この流れの中で、安息日に、イエスは自らすすんで、手の萎えた人の癒やしを行われたのである。

 

神の子イエス・キリストの福音の初め。(マルコ1:1)

 

神の子であるイエス・キリストが、私たちの罪を贖うために、私たちと同じ肉体を持って私たちの所へと来てくださり、命をかけて癒やしの業をなし遂げてくださるのだ。

 

 

 

以下は、過去の夫の説教から

 ファリサイ派と呼ばれる人々がいました。彼らは律法を正しく守って神の前で正しい人であろうとした信仰熱心な人たちでした。彼らは,イエスの弟子たちが安息日にしてはならない畑の麦を摘んで食べるのを見て,イエスに問い質しました。もっとも、聖書に安息日には麦の穂を摘んで食べてはならないと書いてあるのではなく,安息日に仕事をしてはならないという戒めを解釈した彼らの考えに背いているということなのです。

 それに対してイエスはこう答えられました。安息日は,神が共に生きるものとして祝福の内に人をお造りくださったこと,そして神ご自身が人を罪から救ってくださることを深く覚え,神と向かい合うために与えてくださったもので,安息日は人のために定められたものである。決して人が安息日のためにあるのではない。律法は何かをさせないこと自体が目的ではない。神と共に生きる恵みを受けるために定められた。だから,人の子は安息日の主でもある。

 ファリサイ派の人々はイエスに反論することができませんでした。彼らは悔しかったのだろうと思います。彼らは熱心に聖書を学び,神の御前で正しくあるために律法を守ろうと努力し続けてきたのです。自分たちこそが聖書を正しく理解している,そんな自負を持っていました。それが,ナザレの田舎からぽっと出てきたイエスなどという男に自分たちのあり方を批判されたのです。彼らはイエスを神に背く者として訴えようとイエスのことを監視していました。

 

ここまでは2章を振り返って語っている。

 

 イエスはまた会堂にお入りになりました。そこには片手の萎えた人がいました。人々はイエスを訴えようと思い,安息日にこの人の病気をいやされるかどうか,注目していました。ファリサイ派の解釈によれば,命に関わるケガや病気でなければ安息日には治療をしてはなりませんでした。この片手が動かないというのは命に関わるものではありませんでした。安息日が終わってから癒しをしても何も問題はありませんでした。しかし,イエスは手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と言われました。

 イエスは今自分に注目している人々の心を知っておられました。そして人々にこう問われました。「安息日に律法で許されているのは,善を行うことか,悪を行うことか。命を救うことか,殺すことか。」どちらが許されているか,と問うていますが,これはどちらが法の精神にかなっているか,つまりどちらがこの律法を与えられた神の御心にかなっているか,と問われたのです。しかし,人々は黙ったままでした。

 

 ここで人々と言われているのはファリサイ派の人たちです。彼らはイエスが癒す力を持っていることを信じていました。しかし,これを信仰とは言いません。信仰とは,心からの信頼であり,信じる方に従い共に生きることです。そして彼らは,イエス安息日に癒しをすることに反対しながら,癒しをすることを待っているのです。イエスを神に背く者として訴えるために。

 彼らは聖書を教える人たちでした。彼らは神の戒め,律法について問いを投げ掛けられたのですから,彼らこそ責任をもって答えなければなりませんでした。しかし,彼らは答えませんでした。じっと黙ったままイエスを見つめていました。

 イエスは人々の思いをご存知でした。だからこそ問われたのです。ならば,わざわざ相手の思惑に応えるように癒しをしなければよかったのです。命に関わるものではなかったのですから,日が沈んで安息日が終わるのを待って癒しても何も問題はなかったはずです。しかし,イエスはそうなさいませんでした。

 イエスは神の言葉の前で答えることをせず,悪意を抱いて黙っている人々を怒って見回されました。イエスは彼らのかたくなな心を悲しまれました。それから片手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」と言われました。その人はイエスが言われるとおり萎えた手を伸ばしました。すると,手は元どおりになったのです。

 

 この癒しは,長年この障害のために苦しんできた人のためのものであると同時に,神の言葉を知ってはいるけれどもその言葉に込められた神の思いを知らない,神に従い共に生きることをしないファリサイ派の人々のためのものだったのです。しかし,彼らはイエスの思いを理解できませんでした。ファリサイ派の人々は出て行き,早速ヘロデ派の人々と一緒に,どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めました。

 ヘロデ派というのは,ガリラヤの領主ヘロデ アンティパスに従う政治的な一団で,ローマの支配を受け入れ,現実的な路線をとる人々です。一方,ファリサイ派ユダヤ教の宗教的なあり方を徹底しようとする理想を求める人たちでした。本来,ヘロデ派とファリサイ派は相容れないのですが,イエスに対する思惑で一致し,手を組むことにしました。それはイエスを殺すという計画でした。

 

 イエスファリサイ派の人たちに向かって「安息日に律法で許されているのは,善を行うことか,悪を行うことか。命を救うことか,殺すことか。」と問われました。わたしは今までこの問いの最後の「命を救うことか,殺すことか。」がよく分かりませんでした。この日,萎えた手を直さなくてもこの人を殺すことにはならないだろう,この人の手は命に関わるようなものではなかったのだから「命を救うことか」と問うのは大げさ過ぎやしないか,などと考えていました。

 しかし今回,初めて示されました。これはまさしくファリサイ派の人々のために問われた問いなのです。彼らは安息日にイエスを殺す相談を始めたのです。そしてイエスの行為は,自分を理解せず殺そうとするその罪を受け止め,自らの命を懸けて救いの業をなすものです。ご自分は死んで,相手を生かそうとする救い主としての揺るがぬ姿勢を証しするものです。安息日は,神が共に生きるものとして祝福の内に人をお造りくださったこと,そして神ご自身が人を罪から救ってくださることが明らかになるために定められた日です。そして,罪人を殺さず,命を救う神の御業はイエス キリストの命によってなされたのです。

 

 「命を救うことか」と言われているこの「命」はギリシャ語でプシュケーという言葉が使われています。これは元々「魂」を表します。さらには「人格」というような意味を表します。ファリサイ派の人々には,このプシュケー,命,魂,人格が見えていませんでした。彼らにとって片手の萎えた人はイエスを訴えるための道具でした。そして訴える口実を見つけようと虎視眈々狙っていたイエスは,彼らにとっては獲物でありました。ファリサイ派の人々は,人がプシュケーを持つ存在,命,魂,人格を持つ大切な存在であることが見えなくなってしまっていました。

 イエスの問いはその見えなくなってしまっている大切なものに気付かせるためのものでした。神は繰り返し問われます。大切なものが見えなくなってしまっているわたしたちに問われます。

 

 最初にエデンの園で罪が犯されたときもそうでした。神の足音を聞いて隠れたアダムとエバに問われました。「どこにいるのか」と。以来,繰り返し繰り返し罪によって見えなくなっているわたしたちに問い続けられました。神の問いに答えて進み出るとき,わたしたちは神の前に立って,大切なものに気付き,自分の罪を知るようになるのです。ファリサイ派の人々は答えなければならなかったのです。しかし,彼らは黙ったままでした。都合の悪いことには答えない。この世では賢いやり方かもしれませんが,それでは決して救われません。イエスがかたくなな心を悲しみ,怒りをもって彼らを見回されたのも当然です。

 一方,片手の萎えた人はイエスの言葉に応え,手を伸ばしました。彼は「まだ手が治っていないので,伸ばせません」とは言いませんでした。そうではなく,イエスの言葉に従い,手を伸ばしたので治ったのです。治ってから手を伸ばしたのではありませんでした。イエスの言葉に応え,従う。御言葉のとおりに踏み出してみる。まず手を伸ばしてみる。これが信仰です。

 

 イエスはご自分の命を懸け,救いの御業をなし,わたしたちが新しく生きるための創造の御業をなしてくださいました。だから「人の子は安息日の主でもある」と言うことがおできになるのです。

 イエスはかたくななファリサイ派の人々に対しても命を懸けて語りかけ,問われました。たとえ今,わたしたちがどれ程かたくなであっても,イエスはわたしたちに対しても命を懸けて語りかけ,問われるのです。

 イエスの思いが向かわない人は一人としていないのです。わたしたちのことを本気で愛する方がいます。わたしたちのために本気で悲しみ,本気で怒り,わたしたちの救いのために命を懸けられる方がいます。この方,イエス キリストこそわたしたちの真実の救い主なのです。

 

 

 

 

 

 

 

『聴く』(2021年5月号)

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はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイによる福音書10:42)

 

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3ページ目には、〈 絵本と聖書 〉として若い教会員の文章を掲載した。

絵本は、やなせたかし=作『ガンバリルおじさんのまめスープ』、掲げた聖書は、

はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイによる福音書10:42)

本文は、執筆者の許可を得ていないので、ここには掲載しません。

 

 

 

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