引っ越し荷物の整理をしていると、他の教会でした講演のレジメが出て来た。
「いのちを巡る考察 ー太極拳とキリスト教ー 」。
そこに、太極拳を始めた理由というのを書いていた。
「説教をする中で、愛は机上の空論かと悩んだ」、と。
そして、教会の会議や牧師の集まり、自分自身にも愛が感じられない、と記してあった。
愛は説教の言葉の中だけのものなのだろうか。
修養だけでなく、修行が必要ではないかと考える。
寺に参禅してみようかと考えたが、教会員が躓くのではないかとためらわれた。
修練の中に「立禅」がある太極拳を習ってみようと思うに至った。
(略)
プロテスタント教会は、聖書主義を標榜するあまり行(ぎょう)を失ってしまった。
信仰は知性・理性に偏り、身体性を失った。
太極拳でなくともよいと思うが、キリスト者には修行するものが必要。
(略)
神と関係なかったものを神とのつながりにおいて新たなものとしていく。
諸民族の伝統が神と関わるもの、神を証しするものとして新しくなる。
日本、東洋の文化も。
すでに・・・ お茶
西洋化するのが、キリスト教の目指すところではない。
創造主であり、救済主である神と出会い、神との関係・つながりを回復することが目的。
このレジメの参考文献には、笹森建美『武士道とキリスト教』、高橋敏夫『茶の湯の心で聖書を読めば』が上げられていた。
『茶の湯の心で聖書を読めば』は、最近、古書店に送った気がする。
この前の礼拝最後の祝福は、コリントの信徒への手紙ⅡをⅠと間違えたようなのだが・・。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。(コリントの信徒への手紙二13:13)
↓
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(コリントの信徒への手紙一13:13)
聖書でもこのように言われていて、キリスト教の本質は「愛」だと思われるが、教会の中で愛についての言及があまりなされていない気がする。
「愛しなさい」という号令はかけられるが、愛せなさの告白は皆無ではないか?と。
夫は良く「型に入って型を出る」ということを言っていたが、愛するというのも形につながるもののように思える。
私なんかはあまり形というものを大事に考えない方で、料理なんかも料理本のレシピ通りに作った試しがないし、若い頃は生け花を習っていたが、稽古を休んでばかりで型が身についていない。
しかし、やはり型というのは大事だろうと思う。
習っていた生け花では、「天・地・人」という3本の枝を基本にして活けるようだったが、「新風体」という新しい型も生み出されていた。これ等は、型に入って型を出たものということが言えるのではないだろうか?
しばらく前に来られた牧師は、聖餐式で、パンを長老に渡し終えた後、会衆に半ば背を向けて「パンにもれた方はおられませんか」と問うていた。半ば背を向けて尋ねて、そのまま背を向けて講壇に戻れば、配餐にもれた人の確認はできないだろう。これは、所作が合理的に洗練された型を土台に持っていないということだ。
夫は、パンを分かつ時、「取って食べなさい」と言っていた。皆さんそのように言っておられるのだと思い込んでいたが、夫が倒れた後に来て下さった先生方はほとんどそのように仰らなかった。私の恩師はどうだったろう?覚えていない。
ところが、お一人だけ、高齢の引退教師が来て下さった時、同じように言われたのだった。そう言えば、この方は、夫が牧師になったばかりの頃に礼拝にお呼びしたことのある先生だった。夫はその時にこの先生の言葉を聞いて自分も言うようになったのか?と思った。「取って食べなさい」と。これは元々の型に加えたということか?
この先生の聖餐後の讃美歌も、若い頃の夫が良く聖餐後の讃美歌に選んでいたものだった。
myrtus77.hatenablog.com
讃美歌502番 ー2
すくいのめぐみ 告ぐるわれは 楽しみあふれ歌とぞなる。
滅びをいでし この喜び、あまねく人に えさせまほし。
世にある限り、きみのさかえと 慈しみとを語り伝えん。
http://ginouken.com/CrossPoint/CrossPoint-9.pdf